藤本の父は藤本が中学2年生のときに亡くなっており、故郷でも母子二人で暮らしていた。藤本は母について「常に穏和である。ぼくは一度も叱られた記憶がない」と回想している(ドラえもんルーム編『藤子・F・不二雄の発想術』より)。
新たに借りた15号室で藤本母子の生活が始まった。安孫子の日記には、藤本の母がたびたび登場している。56年2月1日の日記を見ると、昼食について「もうまた完全に藤本氏母上にまかせっぱなしでわるい」と記されていた。ちなみに、この日の昼食はごまよごし(ごま和え)。藤本母子と安孫子の三人で昼食をとることもたびたびあったようだ。
藤本の母は周囲とも交流があり、森安なおやからの伝言を承って編集者に伝えたり、後から上京してきた赤塚不二夫の母と談笑したりすることもあった(藤子不二雄A『トキワ荘青春日記』より)。
藤本はエッセイなどに母の名前を記していない。よく探せばどこかに記されているのかもしれないが、藤本と母の写真が掲載された『Fライフ』1号にも母の名前は載っていなかった。だからといって、藤本が母をないがしろにしていたわけではない。むしろ逆で、とても大切にしていた。
61年(昭和36年)10月、藤子不二雄の二人がトキワ荘を出て、川崎市生田に購入した隣同士の家に引っ越したときも藤本は母と一緒だった。翌年、正子夫人と結婚後も同居を続けている。もともと寡黙だった藤本は、母のプライベートなことを大っぴらに語る必要を感じていなかったのだろう。
『マガジン』『サンデー』の創刊とアパートの窓から「ご飯ですよ」と呼ぶ母たち
安孫子の母ふみが上京したのは、藤本の母より少し遅れて58年(昭和33年)のこと。59年(昭和34年)1月1日の安孫子の日記には「母と二人で初めて東京で迎える正月」と記されている。姉の喜多枝は出産のため、この時期はトキワ荘を出ていたようだ。
富山県の氷見市にある大きな寺の長男として生まれた安孫子だったが、10歳の頃に住職だった父がこの世を去る。寺を出なければいけなくなった安孫子の一家は伯父を頼って高岡市に転居。母は喫茶店「ピジョン」の店長として働き、家計を支えていた。藤本と同じく、安孫子も漫画の仕事で収入にゆとりができて、母を東京に呼ぶことができたのだろう。
59年3月、『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が同時に創刊。漫画界の主流が月刊誌から週刊誌へと移行し、さらに多忙になった藤子不二雄の二人は、同年5月、トキワ荘の目の前にできた新築アパート、兎荘に仕事部屋を借りる。
二人はトキワ荘から兎荘に毎朝出勤して、机を並べて一緒に漫画を描き、昼になると二人の母がトキワ荘の窓から拍子木を鳴らして「ご飯ですよ」と呼ぶと、それぞれの部屋に戻って母と食卓を囲んだ。