赤塚、石森、水野、よこた、さらに遊びに来た長谷邦夫や原稿を取りに来た編集者なども加わり、食卓は賑やかだった。特にリヨは水野のことを気に入っていたようで、ドアを開けっ放しにして生活していた水野に夜はカギをかけるよう忠告したり、南京虫に刺された水野に薬を塗ったりしたこともあった(水野英子『トキワ荘日記』より)。
「僕はマザコンだ。かあちゃんが大好きだ」と公言していた赤塚は、母との生活を大いに喜んだ。何をしても「かあちゃん、かあちゃん」と言い、母に膝枕までしてもらっていた赤塚は周囲から「マザコンの極致」と言われても意に介さなかった。なかなか漫画の芽が出ない赤塚が寝ている間、リヨが自分で漫画のストーリーを考えて披露することもあった。主人公が銀河の世界を旅するSFものだったという。
最後までトキワ荘に残っていたのは…
60年(昭和35年)にトキワ荘に入居し、石森や赤塚のアシスタントをしていた山内ジョージもリヨの世話になっていた。山内によるとリヨは勝負事が好きで、暇があれば山内やアシスタント仲間を誘って花札や麻雀に興じたという。
ただし、勝負事は好きだが強くはなかった。山内は「お母さんは遊びを通してそれとなく長田君や私に小遣いをくれていたのかもしれない」と振り返っている。山内はリヨから料理の基本も習っていた(山内ジョージ『トキワ荘 最後の住人の記録』より)。
イタズラっ子と仲の良い母親の日常を描いた「ナマちゃん」がヒットし、人気作家となった赤塚はトキワ荘の近くにあるアパート、紫雲荘に仕事場兼寝室の部屋を借りるが、リヨはトキワ荘で赤塚や石森たちの食事の世話をし続けた。
結婚した赤塚がトキワ荘から転出したのは、藤子不二雄と同じ61年(昭和36年)10月。リヨはトキワ荘に残り、世界一周旅行の借金で引っ越せなかった石森の食事の世話をし続けた(石森も間もなく転出)。
この年の大晦日には父・藤七が上京し、トキワ荘でリヨと二人で暮らしはじめる。若き漫画家たちが情熱を燃やしたトキワ荘の様子を知る人物の中で、最後までトキワ荘に残ったのはリヨだったということになる。
自活する能力が高かった寺田ヒロオは母や姉を呼ぶことはなく、藤子不二雄と石森章太郎は生活を助けてもらうために母や姉を呼び寄せた。赤塚不二夫は母のほうから飛んできた。
それぞれ上京した事情は異なるが、あらためて資料に目を通すと、息子や弟との暮らしを楽しんでいたように見える。トキワ荘の“伝説”とともに、トキワ荘で暮らした女性たちのことも記憶にとどめておきたい。