水野英子の言葉にあるように、藤子不二雄の二人の母親もトキワ荘にやってきていた。ただ、時系列的にもっとも早くトキワ荘に来ていたのは、藤子不二雄の一人、安孫子素雄の姉・松野喜多枝である。上京したのは55年(昭和30年)12月初頭だから、石森章太郎が宮城から上京(56年4月)するより早くトキワ荘に来ていたことになる。

 藤子不二雄はこの年の1月、いくつもの雑誌の原稿を落として干されていたのだが、年末にはまた忙しくなっていた。安孫子と相棒の藤本弘が二人で暮らすトキワ荘14号室にやってきた喜多枝は、当時を次のように振り返っている。

「四畳半だから、机があって、二人が居て、素雄さんも弘さんも眠る時間もなく机に向かっていて、スペースがないから私は押入れの際に寝ていたの。いつ目が覚めても、二人は布団を被って描いてました」(サンエイムック『まんが道大解剖』松野喜多枝インタビューより)

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博物館「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」で再現された「トキワ荘」の部屋 ©時事通信社

 藤子不二雄の二人は前年の忙しかった頃、73時間もぶっ続けで描くことがあった(その反動で正月に脱力してしまって連載を何本も落とした)。もちろんゆっくり食事をする時間などなく、パン、メンチカツ、シューマイなど、片手で食べられるものと水を傍らに置いて、ペンを走らせながら食べていた。

 藤本の回想によると、もともと無精だった彼らはほとんど料理を作っていなかった。実家にいるときに家事を手伝ったことなどなかった藤本は、百科事典で炊き方を調べ、米と水をきっちり計量して目ざまし時計で時間を計りながらご飯を炊いていた(藤子不二雄A、藤子・F・不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』より)。喜多枝が弟らの食事の世話をするために上京を決意するのも無理はない。
(※編集部注:藤子不二雄Aさんの「A」は○の中にA)

 喜多枝は二人の食事を用意したり、洗濯をしたり、空いた時間は本を読んだりと過ごした。二人があまりに忙しいときは、ベタやホワイト、線引きなどの手伝いをすることもあったという。当初は一部屋で三人が暮らしていたが、間もなく藤本が15号室を借りて入居。12月31日には三人で故郷の富山県高岡に帰省している。

藤子不二雄A ©文藝春秋

 なお、喜多枝は藤子不二雄Aの自伝的作品『まんが道』と『愛…しりそめし頃に…』、映画『トキワ荘の青春』のいずれにも登場しない。藤子スタジオ設立後、藤子不二雄(後に藤子不二雄Aのみ)のマネージャーを務め、その後も裏方に徹していた。自分の存在を伏せておきたかったのかもしれない。

「常に穏和である。ぼくは一度も叱られた記憶がない」藤子・F・不二雄の母は…

 次にトキワ荘にやってきたのは藤本弘の母だった。上京したのは56年(昭和31年)1月。藤本の母は高岡で着物を仕立てて生計を立てていたが、漫画の仕事が軌道に乗った藤本が東京に呼び寄せたのだ。