この年のある日の夕食のメニューは「刺身、貝の酢の物、ねぎとさらし鯨の和え物、マカロニグラタン、白魚のすまし」。パンやコロッケをかじっていた頃から比べると大きな進化である。
藤本母子と同じく、安孫子母子も61年10月にトキワ荘から出て、川崎市生田に引っ越している。藤子不二雄の二人は、どこからどこまでよく似た境遇だった。
「フジオが大変だ、あんたすぐ行ってこい!」赤塚不二夫の母を呼んだのは…
息子に呼びよせられた藤子不二雄の二人の母と異なり、自らトキワ荘に駆けつけたのが赤塚不二夫の母、リヨだ。リヨが上京したのは57年(昭和32年)4月のことだった。
リヨが上京した当時の赤塚は、石森、藤子と違って漫画家としての仕事がほぼ皆無だった。編集者から突発的に依頼される穴埋めのカットを描きつつ、石森のアシスタントをしたり、食事の世話をしたりして暮らしていたが、生活は非常に苦しかった。
そんな折、赤塚の叔母が新潟から上京して赤塚の様子を見にやってくる。満州から引き揚げて貧しい暮らしをしていた赤塚一家を心配し、実の息子には冷や飯を食べさせる一方、中学生だった赤塚に炊きたてのご飯を食べさせるような叔母だった。
叔母は東京で暮らす甥のやつれ果てた姿を見て落涙し、新潟に帰るやいなや赤塚家に直行して「フジオが大変だ、あんたすぐ行ってこい!」とリヨに迫った(赤塚不二夫『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ』より)。
とはいえ、リヨは仕方なく東京にやってきたわけではなかった。赤塚はトキワ荘に駆けつけたリヨから「窒息しそうになっていた田舎から脱出できた喜びがありありと見えた」という。かつて満州で芸妓をしていたリヨは都会が好きだったのだ。
なかなか漫画の芽が出ない赤塚が寝ている間、リヨは…
当時、リヨに食事の世話をしてもらっていた石森は、リヨについて親しみを込めてこう書いている。
「小顔で丸顔。縁無し眼鏡の向こうの目が、生き生きとよく動く。明るく勝ち気そうな、伝法調の早口で、タバコを粋に、美味そうに吸う。(中略)そう、内気な息子がジレッタイヨってな感じの、元気のイイおッ母さんなのだ」(石ノ森章太郎『章説・トキワ荘の青春』より)
リヨの姿は、月刊誌『COM』に連載された水野英子とよこたとくおの「トキワ荘物語」で見ることができる(『まんが トキワ荘物語』所収)。いずれもリヨが赤塚、石森章太郎、水野、よこたの食事の世話をする様子が描かれており、よこたは「当時ぼくと石森氏は赤塚氏のおかあさんに食事やせんたくのめんどうをみてもらっていた」と記している。リヨは石森らから月4000円ほどの食費をもらい、栄養バランスのとれた食事を作っていた。