裁判で認定された事実に見る「犯行の瞬間、何が起こったのか」
遺体の発見現場は新潟だが、殺人の犯行現場は東京であり、事件の全貌が見える情報が入ったこともあって警視庁が捜査の全権を握った。だからでもないだろうが、事実関係は「警視庁史 大正編」と「新潟県警察史」という警察の正史同士でも微妙に違う。
犯行については裁判で認定された事実を見るしかない。一審東京地裁の判決を現代文に書き直すと――。
第一 憲は農商務省技師として外米管理に奉職中、大正7(1918)年10月以降、新潟市で定期米の買い付けと定期株式の売買をし、同8年3月ごろ、既に多額の損失を生じ、金の調達に苦心していた。同年4月中、鈴木辨蔵が外米指定商になることを希望しているのに乗じ、金をだまし取ったうえ、鈴木を殺害し、死体を遺棄して犯跡をくらますことを決意。被告(渡邊)惣藏とその方法を協議した。同年5月21日、府下目黒村、料理店「内田屋」で辨蔵と面会。惣藏を局長付・木村某と詐称し、某商店は20万円(現在の約3億1000万円)を贈賄して指定商になったことから、希望を達したければ15万円(同約2億3000万円)を出せと申し向けた。辨蔵にためらいの色が走ったのを見て憲は、いつか官僚を辞めて辨蔵と一緒に事業をやる意思があるとうそをつき、ついに辨蔵に5万円を出すことを承諾させた。
そしてついに殺害の場面に。
同月24日午後8時ごろ、目黒駅付近の道路で5万円をだまし取った。31日、憲の住居に辨蔵を招き、2階8畳間で同夜8時ごろ、憲と辨蔵が対談中、惣藏がバットで辨蔵の背中を打ち、次いで手ぬぐいで首を絞めた。憲も辨蔵をあおむけに倒して右手でノドを絞め、窒息死させた。
第二 憲と惣藏は死体を遺棄する場所について協議した結果、6月1日、憲は庄平に事情を話し、死体運搬の助力を求めた。憲は自宅納屋で小刀とのこぎりで辨蔵の死体の首、左下肢、右股の順に切断。2個のトランクに納め、翌日午後6時半、惣藏と庄平はそのトランクを携帯して長岡市に向け出発した。翌3日、同市中島町、船乗り業、高野久蔵に事情を告げずにトランクを船に乗せ、同夜8時から9時までの間に古志郡上川西村字川袋と脇川新曲付近で信濃川に投棄した。
残った首と脚は長期の捜索の結果、7月8日に発見される。東日号外に戻れば、別項で「犯跡を晦(くら)ます為 奥州から偽電」の見出しの記事が載っている。
辨蔵が行方不明になった後のことを、長男が「そのうちに奥州方面から父の名で『外米を売るな』と4~5回電報を打ってきて、最後に青森から電報があったが、合点がいかないので、東京支店の主任を青森に出張させ調べたが行方が分からず……」と語っている。
一方、「山田、新聞を見て 愕然として自首」という別項記事も。自分の署名が入ったトランク入りの死体が発見されたことから「到底罪状の発覚を免れずと良心の呵責に耐えず」と書いているが、「自首」のいきさつはかなり違うし、犯行の偽装工作までしているところからみて、そんな殊勝な心がけではなかったはず。