チャコと名乗ったホステス
私たちが席に着くと、ホステスは私の左となりに座った。
「いらっしゃいませ。飲んでいいですか?」
私の横に座るや否や、長年染み付いた店での習慣なのだろうか、それとも私が格好のカモに見えたのだろうか。何の遠慮もなく飲み物を所望した。その仕草は、ベトナム戦争の時代に始まり、今も、バンコクやフィリピンにあるゴーゴーバーで働く女たちの姿とだぶって見えた。ただ、かの地では若い女たちが、米兵ではなく観光客相手に春を売っていて、ベトナム戦争が生んだそうしたバーは、未だに生き続けているのだった。
片や、中華街のバーは、その種の雰囲気は残されているものの、時には横須賀辺りから米兵たちが来るのかもしれないが、明日にでも店を閉じそうな寂れた空気に包まれているのだった。
年の頃60代後半の彼女は、間違いなくベトナム戦争時代からここにいるはずだ。できれば当時の話を聞いてみたかった。
「まぁ、米兵は掃いて捨てるほどいたけどさ、そんな昔の話はしたくないのよ」
嗄れた声でやんわりと、昔話を拒んだ。
ショットグラスに入ったウイスキーがカウンターに置かれると、「かんぱーい」の掛け声とともにウイスキーを一気に流し込んだのだった。
今では、米兵ばかりか、ほとんど客など来ず、見慣れぬカモが現れた時に、稼げるだけ稼ごうという算段なのだろう。立て続けにおかわりし、同じように一気に飲み干した。己の体を痛めつけ、命を縮めるような飲み方だった。
カウンターの向こうにある壁には、英語のメニューが掛けられていた。ホステスドリンク1000円から1000万円と書かれていた。街が賑やかで色街だった時代の空気がメニューから漂っている。現在とのギャップにメニューを見ていて、何だか無性に虚しい気持ちになってくる。
特に会話をするわけでもなかったホステスの女性は肝臓が悪いのだろう、目には黄疸の気があり、眼球は黄色く、充血していた。
「1万5000円です」
彼女が飲んだのはウイスキー3杯、滞在した時間は30分、メニューに1000万円までと書かれている以上、私はその料金を払って店を出た。
翌日の夕方、見慣れぬ電話番号から着信があり、電話に出ると、昨晩のバーのホステスからだった。
「昨日はありがとね。また良かったら来てくださいね」
そう言って、彼女は電話を切った。それから、常にバーのことは気になってはいたが、数年前に店が潰れたことを人づてに知った。
チャコと名乗ったホステスは、今何をしているのだろうか。