赤レンガ倉庫、みなとみらいが港沿いに広がる洗練された街・横浜。異国情緒あふれる中華街に、スポーツファンで溢れる横浜スタジアムもあり、有数の観光スポットでもある。しかし、その歴史を紐解くと、売春や麻薬、ストリップ劇業に革命家の隠れ家といったカオスな日常があった――。ノンフィクション作家・八木澤高明氏の新著『裏横浜 グレーな世界とその痕跡』(ちくま新書)から一部を抜粋して転載する。(全2回の1回目/後編を読む)
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70年代までは、売春と麻薬の巣窟だった中華街
アジアとの濃厚な結びつきを持っていた中華街は、太平洋戦争の後もまた違った形で、縁を結び続けていた。
戦後、中華街に現れたのは米兵だった。横浜が米軍に占領された1945年からベトナム戦争が終結する70年代まで、中華街は売春と麻薬の巣窟だったという。
裏通りには米兵相手の連れ出しバーが軒を連ね、その数は中華料理店の数より多かった。麻薬は香港やシンガポールから中華街へと密輸され、横浜の黄金町などに流れて、娼婦や肉体労働者たちが溺れた。
「中華街は物騒な場所でね。歩くどころか入れる場所じゃなかったよ。新車で入ったら、中国人に囲まれてさ、車を持っていかれたりする危険な場所だったんだよ」
横浜市内でバーを経営する60代の男性は言う。ひと昔前までは、殺伐とした空気がこの街には漂っていた。
私が物心つく頃には、そんな空気は失われていたが、ただ30年ほど前には、中華街に暮らす中国人と日本人の若者が喧嘩をしたという話を聞いたことがあった。
ベトナム戦争時代から営業しているバーで
今から10年ほど前のことになるが、かつて米兵向けの連れ出しバーだった店に足を運んだことがあった。その店は中華街の横浜スタジアムと道路を挟んで向かい合っている玄武門から入って、100メートルほど歩いた場所にあった。
私の友人の山岸さんが、ベトナム戦争時代から営業しているバーがあると教えてくれたので、一緒に足を運んだのだった。
バーは中華料理屋が並ぶ通りに、ぽつんと一軒だけあった。中華街が観光地となるにつれ、次々と消えていった連れ出しバーの最後の灯火だった。
ドアを開けると、店内はタイル張りで10人は座れる立派なカウンターがあった。客の姿はなく、カウンターの中にオーナーと思しき女性とカウンターの奥まった場所に茶色いハイネックのセーターを着て、土色の肌をした顔色の悪いホステスがひとり座っていた。