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「大連から貨物船に乗って行ったよ。船の底に乗っていったんです」 密航者と売春で溢れたかつての“横浜・中華街のリアル”

『裏横浜 グレーな世界とその痕跡』より#1

2022/06/14

genre : ライフ, 歴史, 社会

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コロンビアで出会った華僑の若者

 中華街を生み出した中国人たちは、日本の横浜や神戸、長崎ばかりでなく、アメリカのニューヨーク、フィリピンのマニラやタイのバンコクなど、世界を股にかけてビジネスをしている。そんな華僑たちは、福建省や広東省の出身者が多いと前に記した。

 フィリピンを例にあげれば、中華街ばかりでなく、ショッピングモールなどのフードコートにある中華を出すレストランなどのメニューには、フッケンミーという麺料理がたいがいのっている。フッケンは福建省を意味し、ミーとは麺のことだ。フッケンミーは、フィリピン社会に広く華僑の文化が根付いていることを物語っている。

 中国南部の福建省や広東省は、伝統的に多くの華僑を生んできた。私は、東南アジアばかりでなく、コロンビアの田舎町でも広東省台山市出身の男性に出会ったことがあった。その男性は一族の出身地である台山という名の中華レストランを経営していた。

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 台山は、あの孫文に住居を提供していた横浜中華街の温炳臣の出身地でもある。コロンビアを訪ねた当時は、私は横浜中華街の温のことを知らなかったが、この原稿を書くにあたって、不思議な結びつきを感じて奇妙な気持ちになった。

 コロンビアの田舎町で、華僑に出会った時、こんな所にまで移民として来ているのだなと、華僑の逞しさに感嘆したものだった。ちなみにレストランで、チャーハンを注文してみたが、日本の中華料理屋の3倍はある量がプレートに盛られ、食べ応えはあったが、脂っこくて、横浜の中華街で味わえるご飯がパラパラとしたチャーハンとは程遠かった。そして、南米チリの首都サンチアゴでも小さな中華料理屋を経営する華僑に出会ったことがあった。どこの出身か聞くのを忘れてしまったが、コロンビアの華僑と同じようにやはり彼らのバイタリティーに感嘆した。

 華僑の逞しさと言えば、ちょっと話がそれるが、2004年に私はイラク戦争後のバグダッドを訪ねたことがあった。米軍占領下のバグダッドは、連日のように街中で爆弾テロが発生していた。私が滞在していたホテルから歩いて行ける距離にあるホテルが車爆弾のテロに遭い、外壁が剥がれ、窓ガラスはすべて吹き飛び、部屋の中が滅茶苦茶になったその現場にも立ち会った。とにかく私が訪ねた土地で、治安が最悪だったのがバグダッドだった。

 そんな荒れた土地で、一軒の中華料理屋が営業していた。毎日食べていたアラブ料理に飽きたことや店主が久しく見ていなかった東アジアの同胞という親近感もあったが――今でもあの訪ねた中華料理屋のことは忘れられないのだが――やはり思ったのはとんでもない治安の場所でも店を出す、華僑の図太さだった。彼らからしてみれば、バグダッドは商売仇もいないから、商機があるとただ思っていたのかもしれない。この人たちには叶わないなと思ったものだった。

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