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連載大正事件史

「何しろ遺体がひどく腐敗していたので…」20代京都帝大卒エリート愛人に“女性4人殺害”をかぶせた47歳女性の心象

「何しろ遺体がひどく腐敗していたので…」20代京都帝大卒エリート愛人に“女性4人殺害”をかぶせた47歳女性の心象

小笛事件 #2

2022/07/03
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そして、判決の日

 そして1927年12月12日、注目の判決が出た。

「廣川へ無罪の判決 證明不十分の故をもつて 検事は即時控訴の手續(続)き」(京都日出)、「判決のその刹那! 被告の両眼から嬉し涙」(京都日日)、「記録と証拠は利不利半ばす」(大朝)、「法醫学界の大問題となつた小笛殺し事件」(大毎)。12日発行13日付夕刊各紙はそれぞれこんな見出しで大きく報道した。コンパクトな大毎を見よう。

 未決のまま獄につながれること1年半、検事は死刑を求め、弁護士は無罪を主張し、ことの真偽は全国法医学界の問題とまでなった京都北白川、平松小笛ら4人殺し事件の被告、新潟生まれ、京都帝大経済学部選科出身の廣川條太郎(29)にもついに最後の審判の日は来た。12日午前10時、廣川は蒼白の顔に喜憂こもごもの緊張を浮かべながら入廷。傍聴者はたちまち席に満ち、被告の実父・利兵衛、弟・倫次郎の2人も身を固くし、判決を待つ。午前10時40分、橘川裁判長は重々しく「廣川條太郎」と呼び、次いで「無罪とす」と主文を読み出せば、廣川はまず耳を疑うように一瞬裁判長の顔を見つめ、やがてはらはらと大粒の涙を流し、ついには、やせ細った手に顔を覆ってうつぶせになってしまった。親も泣く、弟も泣く、弁護士も泣く。満廷すすり泣きのうちに理由書は読み上げられ、彼は青天白日の身になることができたのであった。 

 記者の思いの入った文章に思える。公訴事実に対する判決理由は結語に尽きる。

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 一件記録を通覧し、慎重審議をとげたが、被告の利益、不利益の点が相半ばして本件の証明は十分でない。

 現場や遺体の状況、鑑定結果、遺書、アリバイ……。いくつもの点で被告に有利な事実と不利な事実が入り交じって、どちらとも判断できない。ということは犯罪の証明が不十分という意味になる。そんな理屈だろうか。複雑怪奇に陥ることを避けた利口な判決のようにも思える。

一審無罪判決を伝える大阪毎日

「法医学上、自分はあくまで他殺と信じているが…」

 森長英三郎「史談裁判」は「京大卒業生の被告人が、遺書の『ジョタロ』の下に実印を押すことは考えられないし、わざわざ死体のそばに被告人の名刺を落としていくことも考えられない。この2点からだけでも、他殺の偽装工作であることは明らかであると思う」と述べている。

 それでも「無罪とは実に意外」と主任検事。「控訴されても確かに無罪」と高山弁護士。小南又一郎教授の談話も複数の新聞にある。「法醫学上 他殺と信ずる が死體の腐敗から断定することができなかった」という長い見出しの大毎の記事。

「こういう判決が下ったのは、廣川本人と小笛の死との関係がはっきりしなかったためだろう。法医学上、自分はあくまで他殺と信じているが、何しろ検案した遺体がひどく腐敗していたので、他殺と断定することはできない状態だった。判決理由は法医学上の問題に少しも触れていないそうだが、裁判所もよほど弱ったという」