今回の事件は、大正時代に限らず、日本の犯罪史上、空前の異様な事件といえるかもしれない。大正最後の年となった1926年の6月、京都市で女性2人、女児2人の死体が発見され、当初は他殺として容疑者の男性も逮捕された。

「(京都帝大)農学部前4人殺し」「北白川(女)4人殺し」と呼ばれたが、遺体の鑑定で「自殺」「他殺」の見解が対立。結局、法医学の権威たち8人による公式、非公式合わせて8通りの鑑定が提出されて話題を呼んだ。

 一審は自殺として容疑者男性は無罪となった後、控訴審では検事が論告で無罪を主張するという前代未聞の事態に。最終的には冤罪事件とされ、自殺した47歳の女性が、義理の娘や知人の娘を殺害。愛人である容疑者男性の犯行に見せかける偽装工作をしたとされた。

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 どうしてそのようなことが起きたのか。新聞記事をベースに振り返ってみる。今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。

小笛事件の第一報は無理心中の見通しが先行していた(京都日出)

第一報から異様だった事件

 事件は新聞の第一報から異様だった。地元紙「京都日出新聞」(現在の京都新聞の前身の1つ)は6月30日発行7月1日付夕刊(当時の夕刊は翌日の日付をとった)で「農大正門前で 養女と知人の子 三人を殺して自ら縊死」という無理心中をうかがわせる見出しだが、最後の1本の見出しは「或(あるい)は犯人は他にあるか」。その後の事件の数奇な展開を予感していたかのようだ。

 京都帝大(現・京都大)農学部は事件から3年前の1923年、同大7番目の学部として発足したが、一般には「農大」と呼ばれていた。

 市内北白川西町、農大正門前、平松小笛(44)は養女、精華女学校4年生・千歳(17)と、かねて懇意である出町柳、大槻太一郎長女・喜美代(5)、次女・田鶴子(3)の3人を殺し、自分は縊死したことが、30日午後、喜美代の実母しげのが同家へ子どもを迎えに行って発見。大騒ぎとなった。所轄下鴨署刑事課から急行。目下取り調べ中だが、あるいは他に犯人があって、平松が殺したように見せかけているのではないかとの説もある。

 自殺、他殺の「両論併記」というのは現在の新聞では考えられないが、当時は公式の記者発表などはなく、記者が現場の刑事らから聞いた話を記事にしていたから、事実関係に誤りがあるのはもちろん、記者の推理や思い込みがそのまま紙面に登場したと思われる。

「北白川西町」は現・京都市左京区。「精華女学校」は現・京都精華学園中学・高校のこと。事件の全容が報じられるのは7月1日付朝刊。再び京都日出新聞を見よう。