「小南博士」とは小南又一郎・京都帝大医学部教授。海外留学の経験も豊富で「実用法医学」などの著書もあり、日本法医学会会長も2度務めるなど、法医学の権威だった人物だ。この事件で最初の鑑定となった彼の判断が捜査と裁判の行方を大きく左右することになる。
「何たる悪魔、何たる残忍性」
ただ、当時の新聞を見ていると、小南教授の鑑定以前に「帝大卒業のエリートによる年上の女の殺害と隠蔽工作」、さらには「母親と義理の娘との三角関係の清算」という、メディアの喜びそうなシナリオができつつあったことは確か。それが鑑定に何らかの影響を及ぼしたことも否定できない気がする。
その表れの1つとして、同じ京都日出1面の「それから…」というコラムにはこんな記事が。
「北白川の4人殺し、母親と娘の恋愛合戦で、マンマと丹治郎になりそこなった情夫。手ぬぐい4本でけりをつけた。何の罪もない2児を道連れにするとは、何たる悪魔、何たる憎むべき残忍性」
「丹治郎」は「丹次郎」の誤りで、江戸末期の人情本である為永春水の「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」の主人公で多数の女性に貢がれる柔弱な男「夏目丹次郎」のこと。「手ぬぐい」は凶器を指しているが、千歳と幼児2人は確かに手ぬぐいだったが、小笛は兵児帯。
それにしても、警察もまだ断定もしていない段階で「悪魔」呼ばわりは、人権への配慮など皆無に近かった当時としてもひどい。
ひどいのは、もう1つの地元紙・京都日日新聞(京都新聞の前身の1つ)も同様だ。同じ7月1日発行2日付夕刊は1面ほぼ全部をつぶしてこの事件を報じたが、主見出しは「果然、情夫の廣川捕はれ 兇行の一端を口外」。
記事本文はと見ると、取り調べを受けた廣川について「1日午前7時ごろまでには依然犯行を否認し、係官を手こずらせ、午前9時ごろに至って、ようやく犯行に近い事実の一端を固い口からすべらせた」とある。ところが、別項記事でも「ついに犯行の一部を自白したもののごとく」と記しているのに、その「一端」「一部」が何なのかを書いていない。
「机の上に3通の遺書がしたためてあるのを発見」
そんな中で同じ日付の大阪朝日(大朝)には遺書のことが載っている。
「奥六畳の間の机の上に3通の遺書がしたためてあるのを発見。封筒在中のものは便箋に『私のものは友一(小笛の実子)に与えずにください……。私はこれから遠い山へ行きます』という意味がしたためられ、この用箋に小判型の『廣川』という捺印がしてあった。他の2通は千歳が友達に別れを告げる手紙体にしたためてあったが、いずれも千歳の筆跡に合わせて犯人がわざと書いたものらしい」
記事の内容は不正確だが、この遺書も事件の大きなポイントとなる。