付近の人の話によれば、27日の日曜日は小笛や娘の姿は見たが、28日から錠が下りていたということから、惨劇は27日夜行われたもの。現場を見るに、中の間に千歳が布団をかぶされて横になり、奥の間に喜美代、田鶴子の2人が着物のままで打ち重なって倒れていた。
遺体は死後3日間を経て死臭を放っていたという。京都日出はこの段階で無理心中を装った殺人との見方を示した。
他紙も大阪朝日(大朝)が「京都になぞの四人殺 自殺と見せたらしい女主人の死體(体)」、大阪毎日(大毎)も「表戸を閉した家の中に 四つの怪死體 母とその養女と下宿人の三角關(関)係 京大出の情夫の仕業か」と、いずれも同様の見方の見出し。各紙とも容疑者を実名で登場させている。
「容疑者と目されているのは…」
「醜關係を續(続)けていゐ(い)た元帝大生が犯人か 二少女は發覺(発覚)を怖れ絞殺?」が見出しの京都日出の記事の中心部分を見る。
容疑者と目されているのは、下宿屋当時止宿していた帝大経済部選科卒業生、廣川條太郎(27)で、その当時から親子のような小笛と醜関係を結び、大正13(1924)年、大学卒業後、神戸の某会社へ雇われたのちも毎土曜日に来て泊まり込み、月曜日の朝早く神戸へ帰っていた。26日の土曜日も、いつものようにやって来たのを付近の人々は見かけたということで、てっきり廣川が絞殺したとみて刑事の一隊は神戸に急行した。
名前を「広川条太郎」と記述した資料もあるが「廣川條太郎」で統一する。千歳も「ちとせ」と書いた新聞もあるが同様に「千歳」に。「選科」とは学課の一部だけを選んで学ぶ課程。「本科」と区別された。京都日出は「某会社」としているが、大朝と大毎は「神戸信託会社」(現在の三井住友銀行の前身の1つ)と明記。大毎は「廣川君は無関係と思ふ」という同社会計課長の談話を載せている。
「廣川君が入社してから、私とは兄弟のようにしている。まだ26歳で庶務課長の重職にあるが、独身で下宿生活を送っている。学生時代の下宿の話をよく聞いているが、小笛と情的交際があったようには思われず、事件に廣川君が関係あろうとはどうも思われぬ」
「惨殺された原因はまだ不明だが、聞くところによれば、小笛は淫奔な女で…」
だが、京都日出はその後、当時は常識だった、たぶん近所の口さがないうわさ話だと思われるような情報を書きつけていく。