「早朝から傍聴人は続々と詰めかけ、150枚の傍聴券も瞬く間に出切った」
「一人も殺さないと 廣川、法廷で犯行を否認す けふ(きょう)四人殺しの一周年忌に 謎の北白川事件公判開かる」。1927年6月27日発行28日付京都日日夕刊は2面トップでこの見出しを立て、京都地裁での初公判を報じた。
この日早朝から傍聴人は続々と詰めかけ、150枚の傍聴券も瞬く間に出切った。法廷は立すいの余地もないすし詰めの満員で、入廷できない多数の群衆は、せめて法廷に送られる廣川の姿を見ようと、廊下の両側に人垣を築いて物々しい状態。やがて9時40分、看守に引っ立てられた廣川はお召(高級ちりめん)の単衣(ひとえ=裏のない着物)に絽(ろ=夏用絹織物)の羽織を着流し、1年間の未決監生活に疲れた様子もなく入廷した。
各紙が伝えた廣川の陳述の要点は――。
1、小笛の下宿にいた大学生時代の冬休み、他の下宿人学生が帰郷していて、小笛が「寂しいから階下で寝なさい」と言った。寒い時で、こたつに入って寝ているうち関係した。その後、千歳とも
2、そのことを知った小笛は「妻にしてやってくれ」と言ってきた。その際、千歳の学費を月々30円(現在の約5万円)くれと言うので、一時金として250円(同約40万円)を渡した。その後もさまざまな理由で何回か、金品を渡した
3、神戸信託に就職が決まった際、手切れ金として120円(同約19万円)を渡したが、神戸の下宿に移ってからも関係は続いていた。ほぼ毎週土曜日に京都の小笛の家に来て泊まり、月曜早朝に神戸に戻る生活をしていた
4、永久に関係を続ける考えはなかった。小笛は強度のヒステリー性の女で、極端から極端へ走り、親切な時は非常に親切。しかし神経過敏で、何か立腹すると二言目には「死ぬ」と言って騒ぎ、私が縁を切ろうとすると脅迫する。私が妻をもらうことになれば「祝言の席へ暴れ込む」とか「社へ怒鳴り込む」と言って脅すので非常に困っていた
5、6月20日の夜、「これからはあまり来られないから」と言うと立腹して「京都に来てくれなければ死ぬ」と言う。「短気を起こしてはいけない」と慰めた。小笛は「心中してくれ」と言ったが「引っ越して商売でも始めた方がいい」と相談に乗らなかった
6、27日の夕飯は7時ごろに済まし、9時ごろ就寝。28日午前4時半ごろ、小笛が起き、20円(現在の約3万円)を無心されたがきっぱり断り、神戸に帰った
7、遺書は小笛の筆跡だが、私は全く知らない。印鑑は私の物だが、押したことはない。きっと小笛が盗み出して押したと思う
廣川にとって不利だったのはアリバイ。6月27日の夕食時間について廣川は途中で供述を変えるが、検察は近所の人の証言などからも午後7時ごろと推定。小南教授は4人の死を食後7~8時間と鑑定したので、犯行は28日午前3時ごろとなる。廣川自身、小笛宅を出たのは同日午前5時半ごろと証言しているため、廣川は事件当時、現場にいたとみなされた。