「史談裁判」は「『司法沿革誌』で歴代の全国の検事長や検事正の名前を調べてみたが、ついに角谷の名前は発見できなかった。昔はこういう、自己の出世を考えない、気骨ある検事もいたのである」と書いている。
大朝には「きょうの検事の態度は実に立派でした」という高山弁護士の談話も載っている。一方で、元検事の書いた小泉輝三朗「三十九件の真相」(1970年)は、廣川による他殺説をさまざまに展開している。検事という世界から考えれば、角谷検事の態度は決して称賛されるべきものではなかっただろう。検察内部では“恥部”に近い感覚で捉えられていたのではないか。
この事件での鑑定は、公式、非公式、意見書も合わせて8通り
論告後、保釈が認められ、廣川は約2年7か月ぶりに出所。父や弟、救援運動を続けた友人らと再会した。12月1日付大朝には廣川が獄中で詠んだ俳句が紹介されている。「冤愁の壁にしみこむ祈りかな」。ただこれは、「本当にあつた事」によれば、「冤囚」の誤りだった。
12月5日、正式に廣川に無罪判決が下った。5日発行6日付夕刊で大朝は2面トップだったが、京都日日は同じトップでも短い記事で、京都日出に至っては6日付朝刊株式欄の上に2段9行のみだった。
結局、この事件での鑑定は、公式、非公式、意見書も合わせて8通り。まさに日本の法医学史上、最大のイベントだった。
「三十九件の真相」は「船頭多ければ船は山に登る。日本全国の大学からあまり船頭衆を集めすぎた」「何で裁判官独自の判断をしないか。問題はそこにある」と批判している。
だが、一審の無罪判決に業を煮やして控訴審でまた2人の鑑定を申請したのは検察側。その2人が検察の意に沿う鑑定を出さなかったといって、裁判官に当たるのはどうか。この小笛事件の鑑定は戦後の裁判でも時折引用された。それだけ法医学が重視された裁判といえる。
しかし、一方では、法医学とは研究者1人1人でこれだけ結果が違うものかという怖さを感じることも確かだ。三田教授の弟子である古畑種基・東大教授はエッセーでも小笛事件について触れているが、戦後、下山事件を筆頭に、さまざまな事件で彼の鑑定は物議をかもすことになる。
事件を振り返ってみて残るのは47歳の女の心象風景だ。
確かに淫奔で人生をしたたかに生きた女だったのだろう。ただ、梅雨のさなかの早朝、養女やかわいがっていた女児らを次々締め殺して自らも首をつり、罪を愛人にかぶせようとした。その心情を思うと、残虐というだけでは表せない感情が迫る。事件現場には、早世した子どもをいたむ「地蔵和讃」が流れているような気がする。
【参考文献】
▽山本禾太郎「小笛事件」 神戸新聞・京都日日新聞掲載 1932年
▽鈴木常吉「本当にあつた事 謎の小笛事件その他続篇」 朝日新聞社 1929年
▽香川卓二編「法医再鑑定例」 警察図書出版 1963年
▽三田定則「自殺・他殺」 鉄塔書院 1933年
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽小泉輝三朗「三十九件の真相」 読売新聞社 1970年