他殺か、自殺か、死刑か、無罪か…事件をめぐる「法医論争」
この初公判で弁護側は、参考資料として草刈春逸・京都帝大医学部講師の意見書を提出した。「法医再鑑定例」に掲載された意見書を見ると、小笛の首の2本の索溝のうち、下方の(ロ)は「絞殺による索溝として見ることは牽強付会で、縊死による索痕として論じることが最も自然」とした。同じ京都帝大医学部に籍を置きながら、小南教授の鑑定に公然と異を唱えて「自殺」を主張したことになる。
この事件をめぐる「法医論争」の幕開けで、6月28日付朝刊では、京都日出が「分岐の點(点)は自殺と他殺」、大朝も「疑問の『小笛の死』 絞殺説と自殺説」の見出しを立てた。
高山義三・主任弁護人はこの意見書を補強材料に、新たに法医学者3人による鑑定を申請して許可された。高山は刑事専門弁護士として知られ、廣川が勤務していた神戸信託の支配人を通じて弁護を引き受け、この事件で一躍名をはせる。京都市生まれで京都帝大法科大学(現・京都大法学部)卒。のち1950~1966年の4期16年、京都市長を務めた。
「小笛事件」によれば、その3人の鑑定書は、中田篤郎・大阪医大教授が8月12日、三田定則・東京帝大教授が8月26日、高山正雄・九州帝大医科大学学長が9月19日に提出した。中田教授はのち徳島大の初代学長、高山氏ものち九州帝大総長を務めるなど、法医学会の重鎮。微妙な論旨の違いはあるが、2氏はいずれも大筋で小南教授と同じ他殺説をとった。三田教授もその後、台北帝大総長を務め、門下からは多くの法医学者が輩出した。彼だけが自殺説だった。
その核心は、索溝(ロ)は小笛が最初に縊死を図った際の痕であり、その後、体がけいれんして兵児帯が上にずれ、(イ)の索溝を作ったと考えるのが妥当とした。三田教授は著書「自殺・他殺」(1933年)で、他殺論者が判断を誤ったのは、
(1)首をつるとしばらくして激しい全身けいれんが起こる
(2)まだ血液が循環している間に、ひもや縄が外れたり切れたりして圧迫が去ったときに皮下出血が起きる
などの法医学上の留意すべき事実を忘れたからだと厳しく批判している。
同年11月5日、日本法医学会大会が九州帝大で開かれた。「他殺か自殺か 小笛殺しを論戦の中心に」。5日発行6日付大毎夕刊はその模様を2面トップで伝えた。研究発表では小南教授が座長を務める中、小南門下の研究者が「索条と索溝に関する観察」の題目で、「暗に小笛殺し鑑定について他殺説の正当であることをほのめかした」(同紙)。会場には自殺説をとった草刈講師もいたが、裁判進行中ということで発言はしなかった。
そこでは論争にはならなかったものの、事件から3年後には、三田教授が主幹を務める雑誌「社会医学雑誌」誌上で、三田教授と中田教授が小笛事件の見解をめぐって論争するなど、事件は学界を二分する騒ぎになった。
法医学会直後の11月11日に開かれた公判も「他殺か自殺か死刑か無罪か 法醫学界に大渦を捲(巻)く」(11日発行12日付京都日出夕刊)、「三博士の鑑定も二派に分れ」(同日付京都日日)などと報じられた。11月19日、検察側は2時間半にわたる論告で死刑を求刑。事件後も廣川が終始冷静な態度であることも「大犯罪を犯した者はことごとく犯行後冷静である」と片づけた。
これに対し、弁護側はほぼ同時間の弁論で「小笛が廣川に巻き添えを食わそうとした犯行」と主張。「三田博士の鑑定が最も妥当」として無罪を主張した。