大正事件史をひもとくとき、必ず登場する。それが今回の吹上佐太郎事件だ。「少女殺人鬼」「稀代の淫殺魔」「残虐性淫楽犯」……。当時のメディアが彼に付けた肩書は数多い。

「7歳にして盗みと女とを知り、36歳の夏までに91人の少女を姦し、そのうち数十名の少女を殺害し……」と当時の雑誌は書いた。実際はそこまでの事実はなかったようだが、極貧の中で育ち、学校も満足に行けなかった男は獄中で読み書きを覚え、膨大な自叙伝を執筆。極めて平静に死刑執行を迎えたという。

 女性に対する強烈な性的欲求を犯罪に転化し、太平洋戦争直後の小平義雄、1970年代初頭の大久保清と並び称せられる性犯罪者だが、対象が少女ばかりだったところに、現代に通じる犯罪心理を想像させる。犯行は貧困と体験から生まれたものだったのだろうか。

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 今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する(被害者のみ匿名)。

一連の連続殺人の始まりは…

 後日伝説化されたのに比べて、吹上佐太郎の犯罪の報道はそれほど大きくない。一連の連続殺人の始まりとなったのは群馬県の事件。地元紙・上毛新聞の1923(大正12)年6月11日付記事は2段だった。

連続少女暴行殺人の1件目となった群馬県の事件を報じる上毛新聞

沼田町外れの畑中に 少女の他殺死体 何者の處爲(所為)か直ちに解剖に附し目下犯人嚴(厳)探中と 少女は捜索中の12歳

 利根郡沼田町(現沼田市)大字沼田、荒木惣吉長女(12)はさる7日正午ごろ、付近の田んぼで耕作している父惣吉のもとへ弁当を持って行ったまま夜に入っても帰宅せず行方不明となった。家人も大いに驚き、付近の者とともに八方捜索中のところ、9日午後7時半ごろに至り、同町外れの桑畑内に死体となって横たわっているのを捜索中の者が発見して大騒ぎとなった。沼田署から係官が医師と現場に出張して検視したところ、他殺の疑いが十分なことから、直ちに解剖に付した。現場検証を行うとともに、目下犯人厳探(厳重探索)中とのことだが、同町には数日前も1人の少女が誘拐されようとしたのを発見されて未遂に終わったことがあり、町民は恟々(恐れおののく)としているありさまという。

 結局、この事件は犯人が分からないまま迷宮入りした。次は約2カ月後の同年8月19日付で長野県の地元紙・信濃毎日に掲載された事件。

2件目の長野の事件を伝える信濃毎日

工女誘拐され 桑畠(畑)で惨殺さる 盆踊りの歸(帰)途

 小県郡県村(現東御市)字田中、菓子屋、小林八郎の三女(14)は16日夕刻、同村の山十組製糸場の盆踊りの見物に行くと言って、付近の友達2人と一緒に外出。盆踊りを見た後、田中駅構内で遊んでいた。午後9時ごろ、友達と別れたまま、何者かに誘われ、駅東方約2町(約218メートル)の桑園で強姦、絞殺された。家人は同夜、三女が帰宅しないので大騒ぎし、派出所巡査や村民らとともに行方を捜索中のところ、17日午後4時ごろに至って、無残な三女の死体が発見された。急報で長山・上田警察署長、金井司法主任、成瀬検事、宇野書記らが出張。各方面に手配して犯人捜査に努めつつある。