日本犯罪史上に残る連続少女暴行殺人事件、「吹上佐太郎事件」。逮捕された「犯人」吹上佐太郎は刑事部屋で報道陣を前にビールを飲みながら語り、

 これまで少女を強姦すること九十余名に達するというが、殺すか殺さないかの分かれ目は、相手が自分の言うままになって楽しませてくれるかどうかであり、自分の言う通りに体を提供してくれれば『生き別れ』、そうでなければ『死に別れ』だというのである。(森長英三郎「史談裁判」)

 と記録があるように、取り調べに対しても身勝手な理屈を主張し続けた。

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 こんな佐太郎はどんな生い立ちだったのか。「娑婆」は内容は興味深いが、叙述が自分勝手なので全面的に依拠するわけにいかない。同書と、佐太郎の控訴審を担当したのちの検事総長、中野並助の「犯罪の縮圖(図) 検察38年の回想」、「少女の敵・吹上佐太郎」などから要約する。

 京都市上京区立売浄福寺西入上ル真倉で、西陣の住み込み機織り工の長男として生まれた。両親は吹上家の夫婦養子。織屋の納屋の隅の3畳ほどが住み家で、極貧の冷たい家庭だった。

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 次から次へと6人の弟妹ができ、佐太郎はその子守りに追われ、小学校にも行けなかった。元東朝記者の青山與平「殺人魔・吹上佐太郎」(「文藝春秋」1955年10月「臨時増刊三大特ダネ讀本」所収)は次のように言う。

 内気で小胆(気が小さい)な父、勝気で夫思いの母の間に生まれた佐太郎は、甲斐性もないのに酒色にふける父の、何の成算もない生活に母とともに泣かされた。母は毎晩飲まずにいられない父の酒代のため、質屋通いはもちろん、自分の働いた金まで注ぎ込んだ。ひもじい腹を抱えた佐太郎と弟の2人を早く寝かせてから、母は父1人のために晩酌の膳を整えた。茶碗の音で目を覚ました子どもは布団の中で、父1人が食べるごちそうを欲しいとも言えずに泣いていた。半ば捨て子同然の状態に置かれたこの1、2年の影響が佐太郎の将来を支配した。伏見で長女の静子が死んだ。佐太郎は苦界に身を沈めている次妹より死んだ静子の方が幸せだと思った。

「娑婆」によれば、一家が伏見へ転居した後、死亡した1~2歳の妹のことだ。「どんな病気であったか自分は知らぬが」「早く死ぬ者が幸せである」と書いている。

 一方で9歳ごろのことをこう書いている。

「この時代のわが心の中には、既に異性を愛好する色魔が頭をもたげていた。何となく女が好きで、その局部が見たく、もてあそびたく、女の子にフザケたい気がしてならなかった。寝ている長女(妹)にいたずらをしたのもこの時分であった」

奉公時代は「全くの奴隷であった。1年通じて労働時間は平均18時間であった」

 数え9歳の時から同じ西陣の複数の機屋に奉公に出された。そのころのことを佐太郎は「娑婆」に「自分が奉公時代の西陣は、その使用人を取り扱う状は、纔(わず)かに手かせ足かせをはめないだけで、後は全くの奴隷であった。1年通じて労働時間は平均18時間であった」と記している。