さらにこうも。
「ほとんど全てが無知無学な男女が相混じて共同仕事をしているのであるから、自然相近づき、互いに慣れ合って思ったままを語り、浮かんでくるのに任して相談じ合うという調子であるから、その言うことが卑猥である。その話すことが淫怪である。仕事中に歌っている歌は全て色気歌ばかりである。若き男女が燃ゆる青春の情を相交換する最初の近づきは、仕事中に歌う色気歌に意を寄せて目にものいわすのである」(「娑婆」)
11歳のころ、丁稚をしていた機屋には、自分以外に小僧1人と17~18歳の女中2人がおり、夜は同じ夜具で丁稚と女中が一緒に寝た。この女中の1人で「随分淫乱肌の者がいて、自分たち丁稚2人を相手に毎晩変なことをヤラカスのであった」(「娑婆」)。その章には「女色の知り始め」という見出しを付けている。小沢信男「底辺―人非人吹上佐太郎伝」(「犯罪紳士録」所収)によれば、当時の織物業の女子工の人数は男子工の約16倍だった。
「奉公よりは数等楽であった。自分は確かに獄中生活が楽しかった」
12歳のころ、主人から糸を買いに行かされたが、預かった金を芝居見物に遣ってしまい、それが発覚して懲治場(旧刑法に基づいて、刑事責任のない幼児らを懲らしめるために留置した所)にぶち込まれた。そこで「いろは全部と九九の声、加減の算術、帝国読本の一等、二等を暗記した」と「娑婆」に書いている。
そこを出てまた機屋で働くことになったが、懲治場に行っていたことを知られていづらくなり、飛び出して料理屋で出前持ちをしたが、そこも長くいられず、浮浪者となり、盗みやチボ(関西弁でスリ)をするようになって、何度も留置場入り。
そこで知り合った窃盗常習犯と一緒に大阪に行くが、はぐれて京都に戻る時、知り合った40歳ぐらいの女性に同情されて家に住み“ツバメ”に。金を盗んで逃げだし、京都へ舞い戻ってチボを続けているうちに捕まり、今度は1年の懲治場行きに。この2回目の懲治場では「心学道話」や「商売往来」を暗記した。
「三度の食事は欠かさずできる。仕事は一つの仕事をしていればそれでいいので『ヤレ何をセイ』の『ソレコレをセイ』のとコキ使われる憂いもなく、眠たい時分には寝さしてもらえる。風呂へも1週間以内には入れる。学問はできる。織屋の奉公よりは数等楽であった。自分は確かに獄中生活が楽しかった」と「娑婆」に記している。
母親より年上の女侠客の“ツバメ”になる一方、少女を狙う生活
懲治場を出ても各地を徘徊するなどしていたが、西陣の家をのぞいてみると、一家は生活苦から四国遍路、実際は「乞食行脚」に出たことを知って自分も四国に渡る。旅館の娘にほれ込んで長居をしたり、床屋の弟子になったりしながらも、女性に手を出すことはやめられなかった。
床屋から10円(現在の約1万4000円)を盗んで姿をくらまし、京都へ戻ったが、金がなくなり、空腹で歩けなくなって10円の盗みを自首して出た。今度は2カ月の刑で京都監獄へ。
出所してみると、両親は京都市中で「乞食」をしていた。佐太郎は空き巣で稼いで家族と暮らしていたが、どうしてもその生活に慣れず、1905(明治38)年、世間が日露戦争の戦勝に沸く中、また放浪の生活に。
盛り場などでチボや空き巣を繰り返し、母親より年上の女侠客の“ツバメ”になる一方、街や田舎で少女を狙う生活を送るうち、龍安寺近くで初めての少女暴行殺人に手を染めた。