さすがに担当検事だから、佐太郎の性格を見抜いている。したたかで“食えない”ところも。指摘は続く。
この否認の方法が、口を閉ざして言わぬとか、知らぬ存ぜぬの一点張りなら始末が良いのであるが、彼のはそうでない。まず、千葉と茨城の事件は全く自分は関係ない。ちょっと余計な男気を出しただけで、真犯人はあの連中かもしれぬ。偽りを言ってすまなかったとあっさり逃げ、群馬県と長野県の事件では、前に自白している時でも、面倒くさくなると、係官に問われるままに口から出まかせのうそを並べ立てる。今度はこのうその点を指摘、利用して全部を覆そうとするのである。
その後、千葉や茨城の嫌疑者が無罪となり、この2つの事件も吹上の犯行であることがほぼ裏付けられたにもかかわらず、控訴へ来ても(控訴審になっても)なお全部の否認を続けていた。
「この性欲は先天的」
ところが審理が進んで、裁判長が膨大な証拠書類の読み上げを「一審で十分受けただろうから」と省略しようとしたところ、佐太郎は「読み聞かせてもらいたい」と承知しない。仕方なく裁判長が読み上げ、2~3時間たったころ、佐太郎は「もう結構です。裁判長さん、では本当のことを申し上げましょうか」と言って、それまで否認していた一切の起訴事実を認めたという。
同年4月17日の公判で中野検事は死刑を求刑。「少女姦・吹上佐太郎」によれば、論告が終わると、佐太郎はすぐ立って「ただいま検事さんは性癖という言葉を使われたが、性癖と言われると、私が後天的に悪い性質を自分で育成したようで語弊がある。私のこの性欲は、先天的に母親の母体にある時、既に養成されたのですから、性癖という言葉を先天的とか遺伝的とかいう言葉に訂正されたい」と申し出たが認められなかった。
裁判長の「何か言いたいことはないか」という求めに、佐太郎は「大いにあります」と答えて次のように述べたと4月18日付東朝朝刊にある。
「私が7人の少女を殺し、多数の少女を辱めたということは、いわば二重人格の獣性のしからしめたことだ。私にそんなことをさせたのは環境がさせたのだ。私の父母は無教育で、私に一向教育を受けさせてくれず、陰鬱な家庭がやがてこの私をつくり上げたのです」。ソクラテスを引き、(徳富)蘇峰を論じ、永井潜氏の生理学を引用し、「私は神も仏も信じないが、自分の成した罪悪は自分が背負わなくてはならぬという一大宗教を得ました」と、1時間余にわたって雄弁を振るったといわれる。
徳富蘇峰は国民新聞を創刊したジャーナリストで、永井潜は東京帝大(現東大)教授などを務めた医者・優生学者。
同じ記事には自叙伝のことも。「佐太郎は、社会に彼の経歴を知らしめ、こうした過ちを絶たせようとの趣意で1000ページ以上にわたる詳細な自叙伝を書き、高田予審判事の切なる訓戒でこれを出版しようと決意……」。その原稿料を被害者の供養に当てたいと述べたという。
判決を受けても「せきたてられつつ『どうもご苦労さまでした』とニヤニヤして引き下がり…」
1926年4月24日の控訴審判決は当然死刑だった。
「吹上は春雨注ぐ午前10時、法廷内に引き入れられ、まばらな傍聴席を見回し、ニヤニヤしていた。やがて午前11時、判決言い渡しとなると、寒そうに手の甲をこすりこすり、被告席に立って裁判長をまともに見て、またニヤニヤ笑う。いよいよ『死刑に処す』と宣告があっても平気の平左で、かえってその薄気味悪さが満廷を襲う」
「せきたてられつつ『どうもご苦労さまでした』とニヤニヤして引き下がり、編み笠姿でドアの外へ消えた」(4月24日発行25日付東朝夕刊)