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「殺すか殺さないかの分かれ目は、相手が自分の言うままになって楽しませてくれるかどうか」空前の連続少女暴行殺人“吹上佐太郎事件”とは

「殺すか殺さないかの分かれ目は、相手が自分の言うままになって楽しませてくれるかどうか」空前の連続少女暴行殺人“吹上佐太郎事件”とは

吹上佐太郎事件#1

2022/07/24
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 関東大震災の時、佐太郎は千葉県でトンネル工事の作業員をしていたが、崩落の中でも九死に一生を得たという。そのショックが動機と語っているが、連続少女暴行殺人は震災前から始まっている。そのことからも分かるように、彼の言葉にはうそやごまかしが多い。本人はそのことに無感覚のようにも思える。

「六合流柔道」とは当時隆盛だった柔術の流派「神道六合流」のことか。記事は「そういう六合流虎の巻でか弱い少女を絞殺した犯状をほのめかす」としたうえで、こう冷たく締めくくっている。

「男同士では奇妙な魅力に富んでいるが、醜男(ぶおとこ)の彼には36歳の今日まで、女の誘引性に乏しかったのも、野獣のような目的のため、行き当たりばったりに平気で少女を犠牲にしていった一原因とも思われる」

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少女が出血したのを見て「大変なことになった。傷持つ娘を連れ帰ることはできぬ」

 佐太郎の発言の中に「無期徒刑の20年間」という言葉が出てくる。「20年」は水増しだが、18年前、佐太郎は連続少女暴行殺人の萌芽となる事件を出身地・京都で起こしていた。

 1906(明治39)年9月24日、彼岸の中日に京都・龍安寺付近の山中で、11歳になる少女を暴行、殺害した。1926年に一部が出版された自叙伝「娑婆」によれば、「少女―自由になる女を見いださんとして」いるうち、「妙齢の少女」を見つけた。以前住んでいた同じ長屋の娘だった。

「イナゴ採りに連れて行ってあげる」と言って山中へ連れ込み暴行。少女が出血したのを見て「大変なことになった。傷持つ娘を連れ帰ることはできぬ」「この子が帰れば、すぐ自分の所為と分かる」と思い絞殺したという。

吹上佐太郎(「娑婆」より)

 あまりにあっさり殺人に踏み込んでいることに驚く。「娑婆」にはこう書いている。「こうした筋道の通った殺意は警察や検・判事の前へ出てからようやく羅織(らしょく)したもので、当時の真相は自分も人も知らぬこと」。佐太郎の一生を貫く独自の理屈だ。

「娑婆」によると、佐太郎は明治22(1889)年2月生まれだから、犯行時は満17歳だった。初報がどうしても見つからないが、1906年9月7日の日出新聞(のち京都日出新聞=現在の京都新聞の前身の1つ)の続報は「花のつぼみの少女を強姦したうえ、犯跡を覆おうとして無残にも絞め殺した不敵の悪漢、吹上佐太郎(18)の凶行」と記述した。

吹上佐太郎の最初の暴行殺人を伝える日出新聞の続報

 当時、佐太郎は1年余り同棲していた37歳年上の女侠客と別れたばかりで、犯行後、高飛びの旅費をもらおうと頼って行ったところ、警察に通報されて逮捕された。15年余りに及ぶ三池刑務所での在監の間に佐太郎は看守に殴りかかるなど、40回以上も懲罰房に入れられたという。

 山下恒夫「少女の敵・吹上佐太郎」(「思想の科学」第7次6月臨時増刊号「犯罪事典」所収)は「極度の禁欲生活が破壊衝動となって暴発したのだろう」と見ている。出所したのは1922年3月。その後上京し1年余りたった時から連続少女暴行殺人を始める。

「殺すか殺さないかの分かれ目は、相手が自分の言うままになって楽しませてくれるかどうか」空前の連続少女暴行殺人“吹上佐太郎事件”とは

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