記事はこの後、三女は兄から買ってもらっただて巻で首を絞められ、口にてぬぐいが詰められていたと報じ、その手ぬぐいが唯一の手がかりだとした。既に20歳の車修繕業者が「嫌疑者」として取り調べを受けていると伝えている。
被害者はまだ小学校高等科2年在学中だと書いているが、見出しの「工女」の説明はない。この事件も犯人は挙がらないままだった。
なぜ当初、事件は話題にならなかったのか
佐太郎はその後、8月23日に群馬県の小野上村(現渋川市)で11歳少女、9月21日には千葉県金谷村(現富津市)で16歳少女の暴行殺人を犯したとされるが、記事は見当たらない。
その間の9月1日には関東大震災が発生。関東各地は甚大な被害を受け、捜査も報道もその渦に巻き込まれた。
さらに、震災の余燼がおさまりかかった同年12月と翌1924(大正13)年1月には、「虎の門事件」と「義烈団事件」という大逆・不敬事件が発生。その直後に皇太子の結婚式が行われた。その狭間で少女暴行殺人は世間の関心を呼ばなかったのだろう。
さらに3月に埼玉県・中川村(現秩父市)で16歳、4月に三たび群馬県の東村(現伊勢崎市)でも16歳を被害者に同様の少女暴行殺人を起こしたが、これも新聞報道はないようだ。彼の犯行が明るみに出るのは同年7月末まで待たなければならなかった。
「稀代の兇漢捕はる」
幼女廿餘(二十余)人を殺絞した 稀代の兇(凶)漢捕は(わ)る 東京北海道を股に掛けて 到(至)る處(所)で凌辱殺人
28日午後6時、(東京)府下豊島郡志村新阪町2994、飯塚竹太郎方に潜伏中のところを外神田署・小野巡査(巡査部長の誤り)に逮捕された稀代の凶漢がある。京都市上京区上立売浄福寺西入字真蔵、木村道蔵こと吹上佐太郎(36)で、彼は昨年4月、神田佐久間町河岸付近の米屋、松田文蔵方に雇われていた間、同家の次女を凌辱して逃走中の者だった。
1924年7月29日発行30日付東京朝日(東朝)夕刊は2面3段でこう報じた。「警視庁史 大正編」の記述で補足すると、同年4月24日、松田文蔵方の雇い人、木村道蔵(34)が同家の次女(10)を倉庫に連れ込み、暴行しようとして負傷させたと、父親から所轄の外神田署に届があった。
だが、正式な告訴がされなかったため、本人から聴取書をとっただけで忘れられていたという。以下、東朝の記事は彼の犯罪歴を記しているが、内容はものすごい。
佐太郎は明治29(1896)年、京都地方裁判所で強盗強姦罪により無期懲役に処された。その後減刑され、さきに京都(福岡の誤り)・三池刑務所を出獄し、松田米店に雇われた。同店から逃走後の昨年8月16日、長野県小県郡・田中駅付近の桑畑で同村、小林三女を凌辱、絞殺。8月23日には、小野上村を通行中、同村、斎藤某女を暴行のうえ絞殺した。9月21日には金谷村字白瀧の山林で、同村、小見永某女を暴行のうえまた絞殺した。
その他、群馬、埼玉、福島及び東京市内で女性に暴行した事実もあり、殺人行為には至って平気という稀代の悪漢。目下外神田署で厳重取り調べ中だが、同人は北海道から東京にかけて二十余人の幼女を暴行、絞殺したと自供している。