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2022/08/05

地元住民への聞き込みでわかった新事実

 小和田駅の最寄りの集落となる塩沢集落には、かつて15戸ほどの家屋があった。しかし、現在暮らしているのは数世帯。住民の方から話を聞いたが、小和田から中井侍に抜ける道や高瀬橋のことは、分からないとのことだった。

 しかし、その一方で貴重な話を聞くことができた。「昔は塩沢集落まで車道が通じておらず、どこかに出かけるにはあの道を歩いて小和田駅に行き、飯田線に乗るしか方法がなかった」のだという。そして、「小学生の頃は、毎日、小和田駅まで歩いて電車に乗り、学校に通っていた」ことも教えてくれた。なんとも過酷な通学路だ。

横から見た高瀬橋

 続いて、小和田から外部へ繋がっていたと思われるルート上にある集落で話を聞こうと、まずは中井侍で住民の方に話を聞いた。ダムが完成した当時のこと、ダムが出来る以前のことなど、貴重なお話を伺うことができた。ダムができる前は、中井侍から小和田まで歩いて行ったことがあるという方もおられた。しかし、ダムが完成した後のことは分からないという。

道中には飯田線・唐笠駅の看板が

 続いて天竜川橋がある神原地区でも話を聞いた。しかし結果は同じで、ダム完成後のことを知る人は見つからなかった。皆さんから聞いた話をまとめると、ダムが完成する前は中井侍から小和田への道は街道として利用されていた。しかし、中井侍と小和田では生活圏が異なるため、地元の人が往来することは少なかった。ダムが完成すると小和田の集落が消滅したため、行くことがなくなったという。

ミゼットの謎を解くための最終手段

 当時の通行状況は明らかになりつつあるが、ミゼットの謎は未だ解けない。そのような状態で現地を後にした私は、最後の手段を使うことにした。あの道に設置されていた“この先高瀬橋通行不可”バリケードの設置者に話を聞くことにしたのだ。バリケードに書かれていた浜松市天竜土木整備事務所に問い合わせのメールを送った。

バリケードに記載されていた土木事務所に情報を求める

 その時点では、あくまでも私の個人的な調査であり、文春オンラインで原稿を書こうとは考えていなかったため、質問は「高瀬橋を自動車が通行できたのかどうか」の1点に絞った。また、業務に差し障ってはいけないので、既にご存知の範囲でお返事を頂けると嬉しいという内容で送信した。

 1週間後、土木整備事務所から電話がかかってきた。それは、思いがけない内容だった。

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