また、海軍民政職員の飯田進は当時を次のように回憶する。
「(見ている前で次々と日本兵たちが力尽き斃れていった。その)同胞が、一夜もたたないうちに、大腿や内臓部が切り取られている。その見るも無残な姿を見て、目の前が真っ暗になった。いかに餓死しようとも、今までともに苦労を重ねてきた仲間の肉まで剝ぎ取る……急に寒気がして震えてきた」(飯田進『地獄の日本兵』、2008年)
人肉も腐敗したり、病死の遺体は食中毒を起こす危険性がある。したがっておそらく死去したばかりの遺体を食したのであろう。
若い兵一人の死体が近くに…「飯盒18杯分だ」
次第に「人肉食」は高砂義勇隊員をも巻き込んでいった。イリシガイ(第五回高砂義勇隊・猛虎挺身隊)によれば、
──第一八軍司令部で大高捜索隊が編制された時、トリセリー山脈を何ヵ月もかけ歩き、やっと山岳地帯を脱出した。ヤミールでオーストラリア軍捜索隊と戦闘になった。3日間の戦闘で何も食べておらず、夜になると目がかすんだ。夜盲症である。
分隊長は作戦会議で大高のいる拠点隊に行き、不在だった。このままでは餓死する、「奴らの栄養ある肉をちょうだいするか」と義勇隊員12、3人に提案した。若いオーストラリア兵一人の死体が近くにあった。「飯盒18杯分だ」と言った。
服を脱がせると、蕃刀で至る所を切り取り、生で、あるいは焼き、またはスープを作って飲んだ。「これは人間の肉じゃないぞ。猪の肉だぞ」と自らに言い聞かせ、肉を削り取る時は一切顔を見ないことにした。