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77年、運命の夏

2022/08/14

 衛兵所には衛兵7人かいたとされるが、兵長の耳には、驚いたらしい彼らのガヤガヤという話し声とガチャガチャという帯剣が触れ合う音が聞こえた。兵長は両目をカッと見開いて軍靴の響く方向を見た。そしてパチパチとまばたきして自分の目を疑った。軍旗が見えたからだ。

汚れた野戦の服装、ずぶ濡れの下半身…戦地に行ったはずの部隊の姿

 まさか! しかし、確かに軍旗だ。約3カ月前、一木大佐と支隊とともに戦地に行ったはず。国鉄(当時)旭川駅に向かっていくのを自分も見た。兵長の頭は混乱した。軍旗が帰ってくるなら出迎える決まりの当直司令将校は出てきていなかった。それでも兵長は「軍旗入門! 軍旗入門!」とまた怒鳴った。

 歴戦を経てほとんど房だけになった軍旗が門柱の電灯の光に浮かび上がったとき、兵長は直感した。一木支隊が帰ってきたのだと。兵長は軍旗に「捧げ銃(つつ)」の敬礼をし、軍旗の前後にいるはずの一木大佐に「表門、立哨服務中異常なし」と大声で申告した。

 しかし、通例なら「ご苦労」などと答えて挙手の答礼があるはずが何もなかった。

 軍旗は正門から中に入り、続く部隊は四列縦隊で行進していた。兵長は捧げ銃の姿勢のまま、両目から火の出るような思いで眺めていた。

 影絵を見ているような気がした。兵士は吐く息さえも殺したように一様に無言。驚いたことに、小銃の先に着剣している。しかも、戦場を駆け巡って帰ってきたと見える汚れた野戦の服装。腰から下は川を漕ぎ渡ってきたようにずぶぬれで、軍服の上衣と袴(こ=ズボン)の色がはっきり区別できるほどだった。

 兵長は眺めながら放心していた。一方、衛兵所の衛兵司令軍曹は、一木支隊の突然の深夜帰隊に心臓の鼓動がなかなかおさまらなかった。何の前触れもなく部隊が軍旗とともに帰ってくるなど、彼の長い軍隊生活でもなかったことだった。

上等兵は「なにか変だ」と思った

 なぜ将校が出迎えないのか。いくら突然にしても不思議でならない。軍曹の目にも帰還兵士の姿は影絵のように見えた。しかも、連隊本部の兵舎を通過した途端パッと消えたようだった。

 整列したほかの衛兵たちもキョトンとして無言。その1人である上等兵が驚いたのは、通り過ぎる兵士のどの顔も能面ともいうべく無表情で、まるで生気がなく、どす黒いことだった。さらに、誰一人として見覚えのある顔がなかった。

 上等兵は「なにか変だ」と思った。衛兵司令の軍曹は「よし! 俺は巡察してくる」と懐中電灯を取り上げ、帰還部隊の後をつけるように第二線兵舎に向かった。兵士たちが一斉に玄関から、われもわれもといった具合で入って行った。やはり、一木支隊が帰ってきたのだなあ。それなら「ご苦労さま」の一言ぐらいは言わねばなるまいと、懐中電灯を照らして兵舎の中に入った。

 なんということだ。いま兵隊が先を争って入った兵舎なのに、話し声一つしない静けさ。兵士はどこにも一人もいなかった。闇の中の兵舎の長い廊下を冷たく黒い風が吹き、軍曹の首筋をなで、彼はゾッとした。