真珠湾攻撃を主導した連合艦隊司令長官・山本五十六元帥は、短期決戦に勝利して講和に持ち込むことを主張していたが、1942年4月18日のドーリトル中佐らによる日本本土初空襲に衝撃を受け、アメリカ機動部隊の壊滅を期して、ハワイの北西約2000キロに位置する、アメリカ大陸とユーラシア大陸のほぼ中間にあるミッドウエー諸島(環礁)の奇襲攻略を企図した。一木支隊はそのために選抜された部隊だった。
旭川を出た後、広島県・宇品からサイパン島に渡り、作戦発動を待ったが、ミッドウエー海戦は、多くの手違いから主力空母4隻を失うなどの大損害となり、山本長官の企図は挫折した。一木支隊は6月13日、グアム島に上陸。2カ月近く南の島の駐屯生活を満喫し、8月6日、旭川への帰還命令を受けてグアムから輸送船で宇品に向けて出帆した。ところが――。
ここからの話は、菅原進「一木支隊全滅 ガダルカナル島作戦 第七師団歩兵第二十八聯隊」(1979年)と、読売新聞大阪社会部編「新聞記者が語りつぐ戦争14 ガダルカナル」(1982年)、その取材デスクだった田村洋三氏の「彷徨(さまよ)える英霊たち 戦争の怪異譚」(2015年)を基に記述する。実際に目撃した人はその後戦死しており、生前周囲に話した内容を記録している。
午前0時近く、軍靴で砂利道を踏みしめる部隊行進の音が…
1942年8月21日の旭川は、最高気温24.9度(旭川地方気象台ホームページ)というから、それほど暑くはなかったようだ。第七師団は旭川市の郊外にあり、師団司令部などのほか、同師団所属の歩兵二六、二七、二八連隊の兵舎が並んでいた。
そのうち、通称「北部第四部隊」と呼ばれる第二八連隊の兵舎は閑散としていた。一木支隊が出発したため、表門を入って手前の「第一線兵舎」「第二線兵舎」が空になり、一番奥の「第三線兵舎」に留守部隊がいるだけだったからだ。表門では、重機関銃中隊から衛兵勤務に出ていた兵長(上等兵の上、伍長の下の階級)が立哨していた。
終電車も終わって道を歩く人も絶え、もう交代時間の午前0時近くになったかと思うころ、兵長は編上靴(兵士の軍靴)で砂利道を踏みしめるザクザクというような部隊行進の音を聞いた。
編上靴の底に打ってある鉄の鋲(びょう)が、道路にまかれている砂利と触れ合う音。兵長には中隊(兵士約150人規模)以上の部隊のように感じられた。暗くて見えないが、ザクザクと均一にそろった軍靴の集団の歩調だけが聞こえてくる。
夜間演習に出た部隊があるとは聞いていなかったが、部隊が接近してくるのはどういうことだ。兵長はすぐ営門の内側の衛兵所に向かって「部隊接近! 衛兵整列!」と大声で怒鳴った。
旧日本軍は極めて規律に厳格で、将校以上が指揮する部隊が営門を通過する場合は、衛兵が整列して送迎しなければならないなど、細かい決まりがあった。敬礼などの態度や服装に乱れがあるとして上官らから叱られることもしばしばで、衛兵は緊張を強いられる勤務。