挑戦者を決める一戦の幕が上がった
7月25日。
王座戦の挑戦者決定トーナメント決勝は、普段の対局より1時間早い午前9時から開始される。取材のため30分ほど前に関西将棋会館に入ると、連盟職員から「豊島九段はいらっしゃっていますので、対局室の方へどうぞ」と言われる。
御上段の間は、江戸城黒書院を模して造られた部屋で、数ある対局室の中でも荘厳な雰囲気が漂う。豊島は歴代の永世名人の掛け軸が並ぶ床の間を背にして座っていた。静かなる所作、表情に闘志を感じさせることもない。
大橋が対局室に姿を現したのは、開始5分ほど前だった。鞄を置いて一度退室する。少し慌ただしい様子に豊島はその背中に視線を向けた。程なく戻った大橋だが、まだ呼吸が整っておらず、前髪が垂れていた。
筆者は(彼らしくないな)と思った。
豊島が駒箱を開け、盤上にこぼれた駒から王将を自陣に据える。それを見届けると大橋は玉将をつかんだ。豊島が先手番となり、対局が開始された。
対局室を出て記者室へと向かう。周辺の街路樹から、大阪の夏を象徴するクマゼミの大合唱が響く。王座のタイトル戦五番勝負は、晩夏から初秋にかけて行われる。その挑戦者を決める一戦の幕が上がった。
半年前に大橋に取材したとき、「目標はタイトル獲得と決めている」と言った。タイトルは全ての棋士が目指すものだが、はっきりと口にする者は少ない。真っ直ぐに筆者を見つめ、穏やかな表情で話す姿に、何か手応えを掴んでいるように感じた。
後手番になった大橋が積極的な手に出る。右金を一度守りにつけた後、7筋へと繰り出していく。テンポ良く指し進める大橋に対して、豊島は序盤から小考が目立つ。
39手目、大橋は本局最初の長考を迎える。俯いて額を抑える姿は、読みを深めているのか、それとも迷いと戦っているのか。
プロ入りから6年目になる大橋は、2ヶ月後に30歳になる。王座保持者の永瀬拓矢は同い年だが、プロデビューは7年早い。32歳の豊島は棋士になって16年目を迎える。
遅咲きのドリームを、見てみたいと思った。
「藤井さんによって、私の思考法は広がった」
惜しい男だと思っていた。
大橋貴洸が四段昇段を果たしたのは2016年10月1日。24歳という年齢は20代半ばで棋力のピークを迎えるとされる将棋界において、期待値が高いとは言えなかった。だが大橋は三段リーグ在籍時から、すでにプロで7割以上勝てる実力と言われていた。12期在籍したリーグ時代、突出した力を認められながらもなぜか昇段を掴むことができなかった。