何よりこのロビーファイブなどの前のこの道は、「女子大通り」というらしい。その女子大とは、もう少し西に行けばその門が見えてくる相模女子大学だ。キャンパス内には高校・中学・小学校も入っていて、それらに通う学生たちも女子大通りを行きかって相模大野駅を利用するのだろう。そうしたこともあって、相模大野の町の賑やかさが保たれているといっていい。
このあたりまで、駅から歩いてせいぜい10分かそこら。伊勢丹の夢の跡に新しい団地、小中高大一貫の女子大キャンパス。どれも大きな敷地が必要なものばかりだ。相模大野の駅前は、それだけ大きな施設が展開するほど、土地に余裕があったということなのだろうか。
桑畑と軍施設…「相模大野」の150年
実は、女子大や団地はかつての軍施設だった場所の跡地に設けられたものだ。その施設とは、陸軍通信学校や相模原陸軍病院である。
相模大野駅は、神奈川県相模原市南区にある。相模原市は人口70万人を超える政令指定都市で、相模大野駅はその町の中心ターミナルのひとつ(もうひとつは橋本駅)だ。ただ、いまのようにこの一帯がベッドタウンと化して賑やかになったのは、はっきりといえば戦後になってからといっていい。
古い地図を見れば一目瞭然なのだが、明治から大正、昭和の初め頃までの相模原市一帯はほとんど一面の桑畑だった。
南西を流れる相模川と北側に広がる多摩丘陵に挟まれた相模原台地と呼ばれるこの地域は、川沿いよりも標高の高い場所にあったことからなかなか水を確保するのが難しかった。新田開発なども行われたものの大規模なものにはならず、江戸時代まではほとんど開発が遅れていたようだ。
それが明治に入り、外貨獲得のために製糸業に力が注がれ、横浜での貿易が活発になると、相模原台地は一躍養蚕業で活気づく。一面の桑畑は、そうした経緯で誕生したものだ。
ただ、1930年代以降少しずつ様相を変えてゆく。1937年に陸軍士官学校が東京・市ヶ谷から現在の座間市内に移転してきたのを皮切りに、次々に軍事関係の施設が台地上に設けられた。相模大野駅の近くにあった、陸軍通信学校や相模原陸軍病院もそうした施設のひとつだったというわけだ。そして相模大野駅も、最初はこの陸軍の施設のために開業した駅であった。