「かくして相模大野の駅は、軍都のターミナルとして誕生したのであった」
相模大野駅は1938年に開業している。陸軍通信学校が移転してきたことに伴い、その最寄り駅として通信学校駅という名で設けられた。すでに1929年には小田急江ノ島線が開通しており、いまと同じこの場所が分岐点になっている。
ただ、その時点では駅が設けられることはなく、お客の乗り降りはできない“信号所”。一面桑畑の中に線路が通っているだけだったのだから、駅など必要だとは誰も思わなかったのだろう。
ところが、1930年代後半から陸軍の施設がやってくる。そうなると、施設を利用する人たち(つまり軍関係者だ)のために駅が必要になる。そこで、1938年に通信学校駅が開業したのだ。なお陸軍病院はそれから2年後の1940年に開設されている。かくして相模大野の駅は、軍都のターミナルとして誕生したのであった。
「軍施設のための駅」にも戦後が訪れて…
1930年代の後半というと、すでに日中戦争は始まっていて、日本は戦争の時代の真っ只中だ。さらに日米関係も日を追うごとに悪化しており、日米開戦論も高まっていた。そうした中で、1940年の末に通信学校駅はいまと同じ相模大野駅に改称する。
同時期には相模鉄道(現・JR相模線)の陸士前駅が座間町駅を経て相武台下駅へ、同じ小田急の士官学校前駅が相武台前駅へ改称され、地域は違うが現在の西武新宿線の所沢飛行場前駅が所沢御幸町駅(現・新所沢駅)に改められている。
こうしたことから、おそらく軍施設の名をそのまま使った駅名は軍事機密の関係からよろしくないと判断されたのだろう。まあ、いまさら変更したところでどれほど施設秘匿の効果があったのかはわからないが、こうして相模大野駅が成立したのだ。
とはいえ、その時代の相模大野駅はいまのようなターミナルとはまったく違い、軍施設のための駅に過ぎなかった。駅前から軍施設に向かう道すがら(つまりいまのコリドー街など)には商店などもできていたようだが、規模としてはごく小さなものに過ぎない。本格的に商業ターミナルに生まれ変わるのは、もっと後のことだ。
戦争が終わると、軍関係の施設はすべて廃止され、多くが米軍に接収されている。ただ、陸軍通信学校の跡地は接収を免れたようで、1946年には相模女子大学(当時は帝国女子専門学校)がいち早く移転してきている。この相模女子大の移転が、相模大野の駅の性質が大きく転換するきっかけのひとつになった。