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 もうひとつの陸軍病院は、米軍に接収されてそのまま米陸軍医療センターとなり、ベトナム戦争では多くの傷病者が入院して手当を受けたという。すでにお隣では相模女子大の女子学生たちがお勉強に励んでいた最中のことだ。

 米陸軍医療センターが日本に返還されたのはだいぶ遅くなって1981年。その後、ようやく再開発に手がつけられて、1990年代に伊勢丹やグリーンホール相模大野、団地のロビーシティ相模大野などに生まれ変わった。

新宿まで約35分の町

 この間、1959年には線路沿いに相模大野団地(現・プラザシティ相模大野)ができて、ベッドタウンとしての性質も強めてゆく。いまも駅前からプラザシティ相模大野に通じる道筋は「大野銀座」と名付けられた小さな商店街になっている。駅前の繁華街よりもむしろこちらが先に整備されたのかもしれない。いまのプラザシティ相模大野は、ロビーシティ相模大野とは違って昭和の面影も漂う団地群である。

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 ともあれ、こうして相模大野は東京のベッドタウンとなり、また相模女子大学を中心とした学生の町にもなっていった。ベッドタウン一辺倒だと繁華街のようなものは形成されにくいし、逆に学生の町だけではのどかな地域密着系商店街も生まれにくい。

 また、学生の町といっても女子大なので、そのあたりも町の品位を保つには良かったのかも知れない。いずれにせよ、相模大野はベッドタウンと学生街の両方の性質を併せ持ち、加えて小田急線の分岐点という要素も加わって、ターミナルへと発展してきた。

 相模大野駅のお客の数は、コロナ禍前まで右肩上がりで増えてきた。1990年には10万人程度だったのに、2018年には13万人を超えている。2013年にはボーノ相模大野もできて、周囲には一戸建ての住宅街や団地群に加えて大きなマンションも建ち並ぶようになっている。例の撤退した伊勢丹の跡地もタワーマンションに生まれ変わる予定だという。

 

 戦後だいぶたってからもまだまだ田園地帯だった相模大野駅東側一帯も、いまはマンションや戸建て住宅がひしめく住宅街になっている。駅ビル内の自由通路や駅南北の跨線橋で結ばれていて、往来にほとんど不便はない。

 そんな相模大野の町を歩けば、まだまだこれからも発展を続けるのだろう。快速急行に乗って新宿までは35分ほど。遠いように思えて、相模大野は意外と都心に近い町なのである。

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