山形屋商店で通常造られるのは「こいくち」だ。製造量の9割を占めている。東北の家庭料理には主に「こいくち」が使われているせいだが、「うすくち」の需要がないわけではない。そば屋、ラーメン店、割烹、学校給食で使われるので、年に2回は火入れをしてきた。その在庫がなくなりそうになっていたので、再開後はまず「うすくち」を造らなければならないという事情があった。
ただ、全国醤油品評会の県予選は5月で、締め切りが目前に迫っていた。出品する製品を造るには、ラストチャンスになる。
「店を閉じるなら最後の挑戦になるかもしれない」と考えていた渡辺さんは、なんとしても出品したかった。実力で勝負するなら手慣れた「こいくち」だ。が、「東北のうすくち醤油がどこまで通じるかチャレンジしてみたい」とも考えた。というのは、かつて大臣賞に選ばれた関西の醤油メーカーの「うすくち」を見た時、色合いの美しさなどに惚れ惚れし、「やっぱり上方のうすくちはいいな。自分もこんな醤油を造りたい」と思っていたからだ。どうせ最後になるなら腕試しがしたかった。
渡辺さんがそこまで意欲を燃やしたのは、全国有数の醤油製造技術の持ち主だったからである。「こいくち」では過去に4度も大臣賞に選ばれていた。
2011年3月11日――全ては未曾有の危機から始まった
渡辺さんは醤油蔵の跡取りではない。相馬市内の生まれではあるが、東京の大学で経営学を学び、福島県に戻って地方銀行へ就職した。2001年に銀行を辞めて、婿入り先の山形屋商店へ入社。以後11年間は先代店主の義父のもとで「丁稚奉公」からみっちり仕事をたたき込まれた。
その修行がようやく終わろうとしていた2011年3月11日、東日本大震災が発生した。翌12年1月には義父が体調を崩して亡くなってしまう。渡辺さんの店主としての船出は、未曾有の危機から始まった。
ちょうどその頃、羅針盤となるような勉強会が始まった。福島県醤油醸造協同組合がやる気のある蔵元らを集めて年に2回、「醤油出品評価会」を開催したのだ。それぞれ蔵の醤油を持参して「きき味(み)」をし合う。秘伝の技も惜しみなく披露して議論する。切磋琢磨して、全国醤油品評会での入賞を狙った。
これには先行事例があった。清酒である。
福島県の清酒は現在、全国新酒鑑評会で金賞を受賞した蔵の数が9年連続で日本一になっている。その実質的な快進撃は震災の少し前から始まっていた。「同じ発酵食品なのだから、清酒にできて、醤油にできないわけがない。清酒は震災や原発事故をものともせずに頑張っているのだから、醤油も後に続こう」と目標に据えた。