福島県の清酒が美味しくなった理由はいくつもあるが、その一つが「高品質清酒研究会」だった。通称「金取り会」と呼ばれる勉強会に、蔵元や杜氏が集まって秘伝の技を公開し、持ち寄った酒も批評し合って技術を高めたのである。醤油業界もこれにならったのだ。
渡辺さんは、この勉強会に毎回出席し、同じように被災した醬油蔵が復興へと必死にもがく姿に勇気づけられてきた。全国醤油品評会で大臣賞を取った県外の蔵の商品を取り寄せて飲むなどし、研究も重ねた。
研究を重ね、もがき続ける日々。そしてついに…
努力は実った。震災から2年後の2013年、全国醤油品評会に「こいくち」を出品したところ、大臣賞に選ばれたのだ。以後も2014年、2016年、2017年と、5年間に4回も大臣賞に輝いた。
だからといって、山形屋商店の経営が上向いたわけではない。
相馬市は、爆発・メルトダウン事故を起こした東京電力福島第1原発から45kmほどしか離れていない。
同原発の原子炉は暴走を食い止めるために、常時冷却水に浸しておかなければならない。ところが、冷却に使った汚染水が海洋に漏れ出る事故が起きた。2013年のことだ。福島県内の食品は激しい風評被害にさらされて、山形屋商店は県外の取り引き先を全て失った。
県全体の醤油の出荷量も、震災前に比べて5割以上減ったまま、今もまだ元に戻っていない。
追い打ちをかけるように発生した自然災害と新型コロナウイルス
それだけですら大きなダメージなのに、不幸は重なる。2019年には2度の水害、2020年には新型コロナウイルス感染症の流行、2021年には震度6強の地震と、逆境に追い打ちを掛けるような災害が続いた。こうした煽りで、さすがの渡辺さんも全国醤油品評会での入賞から遠ざかった。
だが、今年の品評会には特別な意味があった。もしかしたら店を閉じるかも知れないのである。
「丁稚奉公時代から磨いてきた技術、知恵、情熱の全てを傾け、渾身の力を込めて出品する醤油を作ろうと思いました」と渡辺さんは語る。
「うすくち」の火入れは、4月26日の午後1時に始まった。雨漏りの激しさは収まっていなかったが、この日は運良く晴れた。
火入れには二つの意味がある。生揚げは酵母などの微生物がまだ生きた状態で入っている。これを殺菌して発酵を止めるのだ。もう一つは、熱を加えることで豊かな香りを生む。渡辺さんは「フライパンで醤油を炒めた時の食欲をそそる香り」と表現する。醤油の香り成分は確認されているだけで約300種類とされ、火入れの加減でどこまで引き出せるかが決まる。