「いやな時代」に亡くなった菊池寛
敗戦の翌年の昭和21年3月、表向きは資金難から、しかし、本当のところは国家敗亡に対する失意から、文藝春秋社の「解散」を口にした菊池寛は、さらに翌昭和22年の10月、つまり、「私の人生観」が講演される一年前、GHQから公職追放の指令を受け、訪問客も少なくなった自宅で急な狭心症に襲われ、60年の生涯を閉じていました(昭和23年3月)。
敗戦直後の混乱期、食糧難でごった返す大塚駅のホームで、偶々河上徹太郎に出くわした菊池寛は、「君、いやな時代が来たねえ」と漏らしていたと言いますが(『文藝春秋七十年史』第六章)、まさに「戦争責任」をめぐって「自己批判だとか自己清算だとかいう」言葉が溢れかえっていた「いやな時代」に菊池寛は亡くなっていたのです。そして、それを知る小林秀雄は、あえて菊池寛が好んだ言葉を引いて言うのでした、「後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、〔中略〕今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て」と。
後に小林秀雄は、ハッキリと「私は、菊池寛という人を尊敬していたし、好きだったし」(「菊池寛」『文藝春秋』昭和30年6月)と書くことになりますが、この「私の人生観」の一節を読んだだけでも、菊池寛に対する小林秀雄の敬意と絆とは明らかでしょう。
しかし、初めから二人の関係は深かったのでしょうか。そうではありません。
小林秀雄の四つの菊池寛論や「文藝春秋と私」(『文藝春秋』昭和30年11月)といったエッセイから推すに、小林秀雄の菊池寛への信頼は、最初、無意識のレベルで育てられながら、それが次第に頭にまで達して、次第に意識化されていったものであるように思われます。つまり、偶然が必然化していった例として、小林秀雄と菊池寛との関係は深まっていったのだということです。
では、小林秀雄の菊池寛への敬意は、どのように成熟していったのか。その過程を見ておきましょう。