若手批評家が感じた「疲労」
けれども、そんな生意気盛りの小林秀雄に、文芸批評家としての成熟の機会を提供したのも『文藝春秋』でした。文藝春秋編集部は、「様々なる意匠」(『改造』昭和4年9月)でデビューしたこの若手批評家に、文芸時評で筆を振るうチャンスを与えるのです。
最初、3カ月の約束で始まった文芸時評(連載名「アシルと亀の子」)でしたが、文壇事情に通じているわけでもなく、誰に気を遣うわけでもなく書かれた小林秀雄の文芸時評は、その難解さにも拘わらず、たちまち文壇の注目するところとなり、連載は1年に渡って延長されることになります(昭和5年4月~6年3月)。
ただし、ここで注意したいのは、その時すでに、小林秀雄が「批評家失格」との思いを抱いていた事実です。
文芸時評連載中であるにもかかわらず、「批評家失格Ⅰ」(『新潮』昭和5年11月)、「批評家失格Ⅱ」(『改造』昭和6年2月)というエッセイを続けざまに発表した小林秀雄は、そのなかで、相手の揚げ足をとることに躍起になっている批評家と、そこに自分の名前がないかと怯える自意識過剰な作家たちとで構成されている文芸業界のバカバカしさと、そんな一般読者から遠く離れた世界に生息せざるを得ない自分自身の惨めさと……、要するに、任意のポジショントークに汲々とするだけで、自分の「直観」を正直に語ることのできない文芸業界に対する厭味をたっぷりと書き付けることになります。
少し後のことになりますが、小林秀雄は、業界の習慣として続けられてきた文芸時評について、次のように語っていました、「月々の文壇的事件をとり上げてとやかく言う事に疲労を感じて来る。いい加減やっているうちに疲労を感じて来ない様な人は、少しどうかしているのだと僕は思う」(「文芸時評に就いて」昭和10年1月)と。
では、その「疲労」の中心にあった問題とは一体何だったのでしょうか。
かつて、菊池寛は、文芸作品のなかには、表現技巧において評価される「芸術的価値」とは別に、一般読者が好む「内容的価値」(生活的・道徳的・思想的価値)があるのではないかと論じたことがありましたが(「文芸作品の内容的価値」『新潮』大正11年7月)、小林秀雄の「疲労」の中心にあったのも、それと近しい問題、言わば、文芸作品の価値基準に対する不信でした。