「雑誌屋を兼業している通俗作家」
先に触れた「文藝春秋と私」というエッセイによれば、戦前に限って言うと、小林秀雄と文藝春秋との関係は、大きく3期に分けられます。一つは、生活上の必要から小林が無署名で、埋草原稿を書いていた頃の関係(昭和2~4年)。もう一つは、デビュー直後の小林が、新進気鋭の批評家として文芸時評欄を担当していた頃の関係(昭和5~6年)。そして最後に、昭和8年以来、小林が携わり続けてきた雑誌『文學界』の発行元を、文藝春秋社に移してからの関係です(昭和11~19年)。
こうしてみると、小林秀雄と文藝春秋との関係は、相当に深いものだったように見えますが、小林が菊池寛に出会った当初は、全くそんなことはありませんでした。
「僕は、大学生時代、家出して女〔長谷川泰子〕と一緒に自活していたので、いろいろな事をしてかせがなければならなかったが、『文藝春秋』に匿名の埋草原稿を買ってもらうのが、一番楽な仕事だったから、毎月せっせと書いたものである。だから菊池さんには、ずい分早くから御世話になっていたわけだが、長い間面識はなかった。〔中略〕その後、〔中略〕、菊池さんにしばしば顔を合わせる様になったが、ろくに挨拶もしなければ口も利かなかった。昔の事〔生活に困った小林が、原稿料の前借りを頼みに行った際、将棋で忙しかった菊池寛に話が通せなかったという一件〕を決して根に持っていたわけではないが、悲しいかな、二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである。」(「菊池さんの思い出」『時事新報』昭和23年3月18日号、19日号)
この頃、長谷川泰子と同棲していた小林秀雄は、大学には顔を出さずに、翻訳と家庭教師で糊口をしのぎながら、ときに編集者の菅忠雄を頼って、「アルチュル・ランボオ伝」(昭和2年7月~翌年5月まで)や、「シャルル・ボオドレエル伝」(昭和3年~翌年12月まで)などの匿名原稿を『文藝春秋』に寄稿していたと言います。小林によれば、その時の原稿料が1枚2円、「今日の二千円の稿料よりはいいだろう」(「文藝春秋と私」昭和30年)と言いますから、今の価格で言えば1枚3万円程度でしょうか。いずれにしろ、無名の一学生に払われる金額としては破格の原稿料だったことは間違いありません。にもかかわらず、「二十代の僕のいらだたしい眼には、雑誌屋を兼業している通俗作家など凡そ何者とも思えなかったのである」と言うのだから、いつの時代も青年の生意気さは変わらないと言うべきかもしれません。