劇場で記念写真を撮る永野芽郁の女性ファンたちは、おそらく永野芽郁のファンクラブやSNSでのファン活動を通して繋がった友人たちだったのだろう。彼女たちの中にももしかしたら、次の世代のシイノやマリコがいるかもしれない。手作りに見える推しグッズで写真を撮る女性ファンたちを見ながら、永野芽郁を選んだタナダユキ監督はやはり正しかったのかもしれないと考えていた。
この映画がたったひとつの正解だとは思わない。『マイ・ブロークン・マリコ』はおそらく、21世紀のWEBコミックから生まれた新しい古典として、今後何度となく映像化され、演劇として上演されていく物語になる。
フェミニズムが広がりを見せる韓国や、日本のコミックが読まれる欧米圏、そして未来の日本でも、多様な世代、多様な国籍、多様な属性の女性たちによって『マイ・ブロークン・マリコ』は再解釈され、演じられていくだろう。その中には永野芽郁より強く、鋭い怒りを演じられる女性もいるかもしれない。
でもその最初の映像化は、やっぱり永野芽郁と奈緒でよかったんだよな、と永野芽郁の「推しグッズ」で記念写真を撮る彼女の女性ファンたちを見ながら思う。原作の中でマリコを失ったシイノは、次の世代の若い女性を救済することと引き換えるようにマリコの遺骨と別れる。壊れてしまったマリコと彼女を助けられなかったシイノの物語はまず最初に、次の世代の女性たちに向けて語られるべきだったのだ。
「わたしにはできないと思います」から一転
自分が母子家庭で育ったこと、朝の連続テレビ小説の収録中に心理的に追い込まれた時に、母親が「すべて捨てて逃げてもいい」と言ってくれたこと、これまであえて語らなかったそうした感情をいくつかのメディアで永野芽郁が語り始めたのは、『マイ・ブロークン・マリコ』の公開を控えた今年に入ってからのことだ。きっとこの作品は、永野芽郁にも、彼女の健康な明るい笑顔を愛する多くの若い女性ファンにも、生きることと怒ることを重ねた映画のレッスンとして変化をもたらしていくのかもしれない。
オファーの段階でタナダユキ監督と会い、「わたしにはできないと思います」と実際に断りの口上までのべた永野芽郁は、監督がマリコ役を永野芽郁の実際の友人だと知らぬままに奈緒にオファーしていることを知り、「わたしと奈緒ちゃんだったらできる」と意を決したと語っている。
私たち2人ならそれができる、と永野芽郁が最初に予感した通り、『マイ・ブロークン・マリコ』の世界で最初の映画版は何よりも早く、そのメッセージを最も緊急に必要とする世代のもとに届けられるだろう。まだ壊れていない、新しい時代のマリコとシイノたちの所まで、救急車よりも、絶望よりも、死が2人を別つよりも早く。