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一家4人全員が「死刑」から一転…当主を惨殺したのは誰か?100年前の “冤罪”事件が残したもの

一家4人全員が「死刑」から一転…当主を惨殺したのは誰か?100年前の “冤罪”事件が残したもの

一家4人死刑事件#2

2022/11/27
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ひどい大雪が足跡を消した?

 海野弁護士は自伝「ある弁護士の歩み」(1968年)で「真犯人像」について次のように述べている。

「私の想像ですけれど、外部からやはり入っていると思うのです。しかし、入った足跡がないじゃないかというのが警察・検察側の言い分なんですが、ひどい大雪であったんですから、入ってもすぐ足跡は消えてしまいます。どうも凶器も別の物ではないだろうか」

 確かに、事件前日の1914年12月29日付新潟新聞には「越後の雪」の見出しで「名に負う越後の雪は昨日来、新潟県下を通じて霏々として(絶え間なく)降下し、本朝払暁より時々刻々大雪となりて咫尺を弁ずる(近くのものを識別する)に由なく、世はただ白皚々(はくがいがい=極めて白い)たる寒天朔風の雪景色となり終わんぬ」と美文調の豪雪の記事がある。

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 一方、海野弁護士とともに控訴審で補佐弁護人を務めた泉田吉次郎弁護士は「法律新聞」1916年5月3日発行号に、事件当日の雪の有無について述べている。検証調書では雪が5寸(約15センチ)あったとされたが、捜査に当たった駐在巡査や県警察部の刑事らは、控訴審で異口同音に「雪はなかった」と述べたという。さて、どちらが正しいのか。

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 こうして見ていくと、事件の裁判が厳密な事実審理とは違う目的と手段で進められ、結論が出された気がして仕方がない。

 この時期には冤罪事件が多発。前坂俊之「誤った死刑」(1984年)によれば、真犯人の出現で被告が相次いで無罪になる事件が1916年を中心に起きた。

「事件意識が漸々(ぜんぜん=だんだん)に目覚める中で、江戸時代から引き継いだ旧態依然たる拷問・自白中心の捜査、裁判の在り方がまず問題になった。人権を尊重し、真実を追及するという近代的な意識の勃興と封建的な自白捜査の最初の“衝突”であったといえよう」と同書は指摘する。

 この事件でも検察などの脅しによる自白の強要があったのは明らかだ。だが、それだけではなかった。

 死刑になった細井要太郎が会長を務めた「忠誠會」という青年会組織がある。

「横越町史通史編」(2003年)によれば、忠誠會は地元の祭りに神楽を奉納していた「横越下組」の「若連中」が前身で、日露戦争が始まった1904(明治37)年に発足。当時の会員は80人だった。

 会の目的としては「品行方正を主とし、文を励み武を講じ、交誼親睦を厚くし、相互奨励をもって遂行貫徹せしむるにあり」とされ、講演会、図書の縦覧、投書箱の設置、冬期の夜学校開校、撃剣会の開催などの行事を実施したという。要太郎が予審で「夜学校に行った」と供述したのはそのことだ。

 アンドルー・ゴードン「日本の200年 上巻」(2006年)は、20世紀初めから1910年代末までの日本国内の状況を「内務省、陸軍、文部省という3つの組織が中心となって、ナショナリズムの強化と国家への忠誠、より一般的には権威への忠誠の強化に向けた取り組みが行われた」と指摘する。

 政府は「社会秩序を維持し補強することを目的として、地域社会の奥深くまで影響力を及ぼすようになった」。その一例が「徳川時代以来日本のほとんどの村落に若衆組、若連中などの名で慣行的に存在していた青少年の自主組織を再編しようとした文部省の試みである」という。