1ページ目から読む
7/7ページ目

 忠誠會という名称自体、明治天皇の詔勅から取られた。若者を天皇制国家に結び付ける国主導の動きが青年会設立であり、要太郎もその末端に組み込まれていたことになる。柳田國男「明治大正史 世相篇」は、青年の側からそうした中央集権主義への反発も現れたとするが、それは社会の大きな動きにはならなかった。

姿を消した一家の行方

 そんな中での要太郎の「犯罪」はどう受け止められたのか。たぶん忠誠會のつながりもあったのだろうが、地元で要太郎の無実を主張し、支援する動きが起きた。しかし、時代と国家の考えるあるべき姿は別にあった。

 一審は、検事正が登場して、次男の自供を柱に、強引に家族4人による一家の当主殺害事件として片づけられた。しかしそれは、ナショナリズムを基盤に個人、家族と国家と連結する構想からすれば、あってはならない犯罪だった。

ADVERTISEMENT

「日本の百年 上巻」は、当時求められた日本人の心の在り方として「若者は大人に忠誠を尽くし、女性は男性に、小作人は地主に、労働者は雇用主や資本家に、兵士と臣民は天皇と国家に忠誠を尽くす」ことを挙げている。家父長制は崩されてはならなかった。

©iStock.com

 一方、当時は刑法に尊属殺の規定があり、通常の殺人より刑が重かった。控訴審は結局、長男の自供を根拠に、単独の尊属殺人で厳罰に処すことに切り替えられた。それは、時代の国家の要請に合わせて当時の日本の司法が選択した結果だったのではないか。時代が犯人をつくった、とはいえないだろうか。

 時代は変わりつつあった。大正デモクラシーが広がり、小作争議、労働争議が増加する一方、第一次世界大戦の特需が経済的発展をもたらし、都市化が進む中で農村は大きく変貌。国家主義に絡めとられていく。

「ある弁護士の歩み」によれば、海野弁護士が「週刊朝日」1956年4月1日号に回顧談を載せた際、同誌の記者が細山家を訪ねたが、無罪になって釈放された3人も含めて、一家はどこへ行ったか、行方が知れなくなっていたという。

 雑誌「冤罪File No.24」(2016年3月)所載の片岡健「家族を救うために『冤罪処刑』された模範青年の悲劇!」によると、要太郎の一番下の弟が家の墓を群馬に持って行ったとの親類の証言から、一家は群馬に移住したらしいという。

 細山一家の離村は、古い農村が再編成されて変化し、やがて根本的に変質していく、その崩壊劇のさきがけだったのかもしれない。

【参考文献】
▽森長英三郎「続史談裁判」 日本評論社 1969年
▽大場茂馬「不思議極る殺人事件」=白露生「死刑より無罪へ」(大鐙閣、1917年)所収=
▽海野普吉「ある弁護士の歩み」 日本評論社 1968年
▽ 前坂俊之「誤った死刑」 三一書房 1984年
▽「横越町史通史編」 2003年
▽ アンドルー・ゴードン「日本の200年 上巻」 みすず書房 2006年
▽柳田國男「明治大正史 世相篇 新装版」 講談社学術文庫 1993年