しかし、弁護側の努力もむなしかった。翌1917年12月13日付朝夕刊に在京紙数紙に1つの記事が載った。最も早かったと思われる報知の12日発行13日付夕刊記事の主要部分を見よう。
死刑囚の遺書 新潟實(実)父殺の犯人 最後まで冤(えん=無実)を訴ふ(う)
(細山要太郎は)ついにさる8日午前10時58分、死刑を執行され、11日夜、火葬に付された。死刑執行の10分前、要太郎は弁護人・大場茂馬博士及び家族に宛て、左の遺書をしたため刑に就いた。
私は今、冤罪によりて刑に処せられんとします。しかし、神は必ずわが心の公明なることを知りたまうと信じます。この期に及んで何も言い残すことはありません。私の霊魂なき死骸は何の宗教によりて葬るとも差し支えありません。今や私は神の大なる恩恵によりて天国におもむかんとするところです。決してお嘆きなさらぬように願います。
記事には別項で「陪審制無き憾(うらみ)」が見出しの大場弁護士の談話がある。「死刑というような取り返しのつかない大刑罰を、陪審制もなく決定してしまうのは誠に遺憾千万である」。報知などには遺書の写真も添えられている。大場弁護士はその後も雑誌などで「官憲による詐言(だます言葉)は拷問より恐ろしい」と述べ、取り調べでの人権保護と、陪審制を意味する「国民裁判」の必要性を訴え続けた
「要太郎のいわゆる自白には、すこぶる符節の合わないことが多い」「奇々怪々の死刑囚であると…」
それより1年5カ月前、上告棄却で要太郎の死刑が確定した直後の1916年7月14日付新潟新聞に「横越の親殺し事件」という記事が載った。脇見出しは「眞(真=まこと)の犯人ではないらしいと言ふ(う)」。事件と裁判の経過を述べたうえ「しかるに、この要太郎も、実は全く冤罪であること明瞭であるとの説が高い」と書いている。
「要太郎のいわゆる自白には、杵でたたきつぶしたというのにもかかわらず、被害者の傷口はナタか何かの鈍い刃物で押し切ったような形跡があるなど、すこぶる符節の合わないことが多いという。いずれにしても、奇々怪々の死刑囚であると法曹界でうわさしきりである」。100年以上前の記事ではあるが、いまさらという感じ。無責任とは言いすぎだろうか。