新人記者時代は「かっ飛びの横山」
――過去のインタビューでは、影響を受けた本としては吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)もよく挙げてらっしゃいますよね。
横山 小学生の中学年くらいに読んだのかな。コペル君という中学生の男の子が出てくるんですが、雪合戦をしていて上級生に雪玉をぶつけてケガをさせ「誰だ」とすごまれる。友達が名乗り出て殴られるんですが、コペル君は背中に隠していた雪玉をそっと捨てて顔を伏せる。保身ですよね。あそこを読んだ瞬間、コペル君は俺だ、と思いました。今小説を書いていても、ああ、自分は実はコペル君のことを繰り返し書いているんではないかなと思ったりします。
人間の個性や本質は、その人が何をやったかで計られがちですが、実は何をやらなかったかのほうが、近似値が得られやすいのではないかと思うんですね。名乗り出た友達は決断力と勇気を見せつけますが、誰かが名乗り出なければこの場が収まらないという外的要因に背中を押されて「えい、やー」となった部分もあるでしょう。一方のコペル君はただただ名乗り出るのが恐ろしいという純粋な内的要因のみでフリーズしているわけです。個性は自分を直視することで固まっていくものでしょうから、その意味で殴られた後はすっきりする友達より、熱を出して何日も寝込むことになるコペル君の体験のほうが深度があるし、思い知った自分の本質とこの先どう向き合っていくのか、どんな自分でありたいのか、そう考え続けることは二次的な個性を生みますからね。まあ、私の書く小説の主人公は、たいてい組織の論理やしがらみといった外的要因で雁字搦めです。とりわけ『64』の三上はそうだったので、書きながら三上の純粋な内なる声がわき上がってくるのを待ち続けていたようなところがありましたね。
――そもそも、なぜ作家を目指すことになったのかを改めておうかがいしてもいいですか。大学卒業後には新聞記者として12年間お勤めになって、その後作家デビューしたわけですよね。
横山 うーん、話すと長くなりますが、大学時代は「躰道」という沖縄空手をやっていて、それで頭がいっぱいでした。40年も前の大学の空手部ですから軍隊みたいなものです。100メートル以上も離れたところにいる豆粒みたいな先輩を見つけて「押忍!」。見逃そうものなら道場で何十発も蹴られるんですよ。当時、その流派で全国一強い大学だったので、稽古も厳しくて最初50人いた同期の部員で残ったのは8人だけ。3年で黒帯取るまでは大変でした。ただ、昔やった陸上やサッカーは芽が出ませんでしたが、空手は向いていたみたいで「病院送りの横山」って呼ばれていたんですよ(笑)。すごく技が切れたので、大会でボーンと蹴ったら相手が救急車で運ばれてしまって。
それはともかく、部の引退が近づいた3年の終わり頃だったかな、唐突に「書きたい熱」に襲われたんです。当時、『平凡パンチ』という週刊誌があって「俺の宇宙」というタイトルで論文募集をしていた。もともと天文ファンですしね、次から次へと6本も原稿を書きました。論文調のものから星新一風のもの、童話などと作風を変えて、友達の名前を借りて全部名前も変えて応募したら6作とも佳作に入選して舞い上がりました。ちょうどその頃、帝銀事件や下山事件、三億円事件といった未解決事件の本を読み漁っていたことも影響したんでしょうね、よし、卒業したら事件記者になろう、と(笑)。あの空手部で生き残ったから度胸満点、体力満点、しかも文章もかけるということなら、ひょっとしてすごい記者になるんじゃないか、と(笑)。ただ、商科の大学の単なる空手バカですから、いわゆる大手紙は門前払いだろう、と。それで父の故郷である群馬県の上毛新聞社に訊いたら試験を受けさせてくれる、と。小論文と面接は悪くなかったらしいですよ。「死ぬ気でやります!」とかかまして(笑)、それで採っていただいて12年記者をやりました。
駆け出しの頃、警察官には「かっ飛びの横山」と呼ばれていました。現場に急行する捜査車両を途中で追い抜いて先に現着しちゃうから(笑)。だけど記事が書けなかった。交通事故のたった10行のベタ記事すらうまく書けなくて。あっちの言い分、こっちの言い分、警察官の説明、取材をすればするほどまとめるのが難しくなる。まあ、警察の広報が出す発表文を見れば3分で書けちゃうんですけどね。
12年間の半分以上は県警本部詰めの記者でした。警察だけでなく、検察や裁判所やアンダーグラウンドも守備範囲でした。他にも県政や政党回りや高校野球や企画モノの取材や、支局勤務時代は村の祭りから町の発明王の取材までなんでもやりました。思い出深いのはソウル五輪の取材ですかね。右も左もわからずオタオタして。