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 御陵とは、すなわち天皇陵のことをいう。淡路島には、奈良時代の淳仁天皇の陵がある。天武天皇の孫として生まれ、孝謙天皇の跡を継いで第47代天皇として践祚。しかし、時の実力者・恵美押勝が孝謙上皇に対して反乱を起こして討たれると後ろ盾を失って淡路に流されてそこで没した。

 

 いっときは歴代の天皇のひとりにすら数えられなかった不遇の淳仁天皇。そのお墓のすぐ脇を、淡路鉄道が通っていたというわけだ。

終点は港へ。またしても現在の姿は…

 

 不遇の天皇陵から軽く山をひと越えし、港に近い福良駅が淡路鉄道の終点だ。こちらも起点のターミナル・洲本駅と同じく、淡路交通のバスターミナルになっている。

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 充分広いバスターミナルだが、バスがひっきりなしに出入りしているようなことはなく、なんとなくうらぶれた感が否めない。バスですらそうなのだから、鉄道も末期にはなかなかお客に恵まれなかったに違いない。

 

 結局、50年以上前に姿を消した淡路鉄道の廃線跡は、道路や民家に姿を変えて、ほとんど明確に確認できるところはなかった。90年代にはまだまだはっきりと残っているところも多かったようだ。が、それからみても30年以上。時の流れは残酷なのである。

 かくのごとく、すっかり歴史の向こうに消え去ってしまった淡路鉄道は、いったいどんな路線だったのだろうか。

淡路鉄道の“あの頃の姿”

 淡路島は、歴史的に見れば(というか神話的に見れば)、日本の国の成り立ちにおいて大きな意味合いを持っている。というのも、『日本書紀』や『古事記』の中で、日本列島の中で最初に生まれた島とされているのだ。中世には23もの荘園が設けられて開発が進み、以後の歴史は先にも書いたとおり。

 それくらいの島だから、鉄道建設の計画が勃興するのも早かった。淡路島で最初の鉄道の計画は日清戦争後の1896年で、洲本~由良・洲本~岩屋間に鉄道を建設するというものだった。ただ、由良と福良に軍事施設を建設する構想があり、加えて経営面が不安視されて当局の許可が下りずに立ち消えになっている。

 

 ただ、このときの発起人たちは諦めずに日露戦争後にも改めて鉄道建設計画をぶち上げる。このときは洲本~福良間に実際に許可を得るまでに至っている。

 しかし、測量まで終えたにもかかわらず、これまた不況のあおりで雲散霧消。地元の実業家たちが中心になった小規模な鉄道計画であり、難しい点も多かったのだろう。