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 宮崎市が宮崎県の県庁所在地になったのは明治はじめの1873年。このとき、北部の美々津県と南部の都城県が合併して宮崎県が誕生している。

 さらにもう少し歴史を遡ると、江戸時代の宮崎はいくつもの小藩に分かれていた。北には延岡藩や高鍋藩。南には佐土原藩に飫肥藩。さらに都城を含めた南西部は薩摩藩の領地に含まれていた。加えて幕府の天領が入り組むように点在しており、地域一帯の中核となるような巨大な城下町を持っていなかったのだ。

 そうした事情から、廃藩置県で県が設置されたときにも美々津県と都城県に分かれることになっている。そしてそれらが合併して宮崎県が誕生したときに、中核となる大城下町を持たない悲哀、どこに県庁を置くかが問題になった。

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 白羽の矢が立ったのは、両県のちょうど境界にあった大淀川沿いの寒村だ。それが、県都・宮崎のはじまりである。県庁が置かれたときのこの町は、10戸ほどしかない寒村だったという。県庁舎が南を向いているのは、大淀川の存在感がいまより遥かに大きかったことの現れだ。

「いま宮崎駅があるあたりに最初にできた施設は鉄道ではなく、監獄だった」

 そこからはじまっていまや人口40万人なのだからたいした発展だが、それこそ県庁所在地のパワーと言うべきだろう。鉄道が県都に通ったのは1913年。日豊本線の建設が進んでいる中だったが、宮崎の町を含む区間だけが最後に取り残されてしまった。

 そこで宮崎県営鉄道、つまり県が自ら鉄道を通し、宮崎駅を開業させたのだ。宮崎県営鉄道はのちに国有化されて日豊本線の一部に含まれた。こうした歴史を見ても、小藩乱立からはじまる宮崎県の難しさがうかがえるというものだ。

 ちなみに、いま宮崎駅があるあたりに最初にできた施設は鉄道ではなく、監獄だった。1885年に刑務所が設置され、駅が開業したのちも駅東側は刑務所の地。1976年に郊外に移転し、その跡地は公園や科学技術館として整備されている。駅の東側の開発が進んだのは、刑務所が移転してからのことだ。

 

 いまの宮崎駅東口。まっすぐ東に延びる大通りがあり、南を向けば科学技術館のドームが見える。ホテルやコンビニもあるが、広々とした駐車場が目立ち、アミュプラザのある西口とは対照的だ。

 
 
 

 これからの東口はどうなっていくのか。ニシタチの歓楽街とも、県庁舎とも少し離れた宮崎駅の周囲に商業施設ができたのはつい最近のことだ。これからの宮崎の町は、駅を中心として変貌していくのかもしれない。

写真=鼠入昌史

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