「あなたの書いた『秩父宮』は読みました。真面目に本を書く人であることはわかっています。だから8時間天皇とだけは二度と書かないで欲しい。それはわれわれは困る」
と強く念を押した。私は渡辺さんの一族が明治以来、天皇家に仕えてきたことを知っていたので、その方面に話を進めると渡辺さんはこういった。
「私はそういう感情から言っているのではありません。かつての時代のような天皇の在り方とは一線を引いてお仕えしています」
渡辺さんはどこまでも真剣だった。私はその態度に打たれ、誤解を生む表現であることを認めた。以来、渡辺さんとの距離が縮まった。「わからないことがあったら、いつでも連絡をください。わかることなら答えますから」というので連絡したこともある。
陛下も日記などは残されている
2015年には本誌で対談し、2019年の御代がわりの際には、作家の半藤一利さんを交えて日経新聞で座談会を行った。最後に会ったのは令和になった翌年、2020年の暮れのことだ。その随分前に「折り入って相談したいことがある」と丁重な手紙をもらっていたのだが、なかなか会う機会をつくれず、また渡辺さんも体調を崩したこともあり、ホテルニューオータニのラウンジで会うまでに1年近く経っていたように思う。
渡辺さんは酸素吸入のチューブを付けて出歩くようになっていた。話は『昭和天皇実録』のことになった。2015年に一般向けの刊行が始まった『実録』は全19巻の密度の濃い書になって2019年に刊行を終えていた。渡辺さんはこう話した。
「上皇陛下もいずれ『実録』が刊行されるでしょう。しかし陛下の場合は、昭和天皇に比べて資料が少ないのが心配です。陛下も日記などは残されている。しかし公表されるかどうかはわからないし、難しいかもしれない。備忘録風の記述やプライベートのことも多く書かれているでしょうから……」
『実録』の編纂には、宮内庁書陵部編修課の専門スタッフ数名があたったが、24年あまりかかった。何より記述の元となる資料が重要であり、その収集に相当な時間が費やされる。渡辺さんは、平成の天皇の実録のことをしきりに心配していた。
「実は、自分も明治天皇にお仕えした曾祖父以来四代の歴史を振り返りながら、私が身近に接した陛下のことを書き残しておこうと考えています」
渡辺さんの曾祖父渡辺千秋は維新後、内務省に入り西南戦争の事後処理などで活躍した。薩摩出身の有力者に重用され県知事など務めた後、貴族院議員となり、その後、宮内大臣となる。次男千春が大山巌の四女と結婚し、その長男の昭は昭和天皇の御学友に選ばれた。昭の長男が允氏だった。
渡辺さんは体調が芳しくないようだったが、「家で資料をひっくり返している」「みなさん、わが家のことを華族とおっしゃるけれど、曾祖父だって元は信州の小さな藩(諏訪高島藩)の下級武士なんですよ」などと語るのを聞きながら、執筆を励ました覚えがある。
どれだけの側近が書き残しているか
天皇の実録の編纂には、資料として天皇本人の回想録や、側近である侍従(武官)長の日記の「質と量」が大きなちがいを生む。昭和天皇で言えば、終戦直後にGHQに提出するため行われた聴取の記録『昭和天皇独白録』や、内大臣木戸幸一、侍従長入江相政ら側近たちの日記がなければ、ずっと無味乾燥なものになっていただろう。
渡辺さんは正直なところ、平成の侍従や側近のうち、どれだけの人がきちんと書き残しているか心許ないと感じていたようだ。昭和天皇の御代と異なり、侍従は華族出身者から官僚中心に代わってしまった。しかも他省庁からの一時的な派遣がほとんどであり、お仕えする期間も数十年から数年単位に短くなった。式部官長から宮内庁参与まで25年仕えた渡辺さんは例外的に長い。
公的な記録として侍従(職)日誌というものはある。しかし、それはあくまで公的な記録であって表面的なことしか書かれておらず、天皇が洩らした言葉や心情などは記されていない。渡辺さん自身『天皇家の執事』という本を書いていたが、書き残したことも多くあると洩らしていた。
「君も書き残しておきなさい」
話を聞きながら、私に手伝ってほしいのかもしれないとも感じられ、「資料がある程度まとまった時にお手伝いできることがあれば」と私は言った。すると渡辺さんはこう言われた。
「君も両陛下には何度かお会いしているのだから、必ず書き残しておきなさい。20年後か30年後かに書かれる『実録』のためにも」
私はうなずいた。