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 私たちが答えに詰まっている様子をみて、美智子さまが穏やかな口調で私に尋ねた。

「保阪さんは何年のお生まれなのですか」

「昭和14年の12月生まれです」

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 半藤さんが言い添えてくれた。

「私と10歳ほど離れています」

 陛下は1933(昭和8)年、美智子さまは1934(昭和9)年のお生まれだから私より5、6歳上になる。一方、半藤さんは1930(昭和5)年生まれなので陛下より3歳年上だ。

 そして、子供の頃の教科書の話に移った。半藤さんが「いやあ、あの頃はひどい教科書でした」と嘆息すると、陛下も美智子さまもはっきりとうなずかれた。

 私は戦後に学んだ世代だったので黙していたが、半藤さんはこう言った。

「陛下のお立場からは言いにくいことかもしれませんが、今ではちょっと考えられないくらいに強引な教科書でした」

 すると美智子さまはこうおっしゃった。

「私も同じ教科書でした。極端な内容の教科書でしたね」

 率直なのに驚いて陛下のほうを見ると、

「私もあの教科書で勉強していたんですよ」

 と話される。陛下は1940年に学習院初等科に入学されている。日本の尋常小学校は、その翌年から47年まで国民学校と呼ばれた。戦時体制に対応して「皇国民」育成にふさわしい教育を行うためである。

 お生まれになった時から皇位継承が決まっていた陛下もまた、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」とか、「この国を 神生みたまい、この国を 神しろしめし、この国を 神まもります」といった内容の国定教科書で勉強していたのかと思うと感慨を覚えないわけにはいかなかった。

保阪正康氏 ©文藝春秋

「建物が何一つないんですよね」

 私は戦後に教育を受けた世代なので黙っている以外になかったが、美智子さまから尋ねられた。

「保阪さんが小学校に入ったのはいつですか」

 このように美智子さまは会話の中に招いて下さる。こうしたお気遣いはその後、何度もしていただいた。

「昭和21年の4月です。そのときはまだ小学校も国民学校という名前が残っていました」

「私の妹といっしょの学年ね。妹の生まれは保阪さんより1年遅いけれど、早生まれでしたから。あの頃も大変な時代でした。教科書がなかったんですよね」

 戦争直後はモノ不足の時代だ。私は「先生が毎日、謄写版で印刷してくれた紙で勉強していました」という体験を話した。

「妹の様子を見ながら本当に大変だなあと思いましたよ」

 両陛下ともお話しになるときは必ず相手の目を見て話す。ソファに座って斜め向かいの相手に話すときは、体を少し相手の方に向ける。それがお二人のなさりようである。

 半藤さんは、「陛下はそのころ栃木にいらしたんですね」と聞いた。終戦時の話だ。昭和19年7月から初等科の同級生とともに日光に疎開され、20年の11月に列車で東京にお戻りになるまでその地にいらした。

 帰京時、埼玉と東京の県境の荒川を渡り、赤羽のあたりまで来ると見渡す限りの焼け野原が広がっていた。

「建物が何一つないんですよね。これほどひどいのかと本当に驚きました」

 まだ陛下は小学6年生だった。その後、原宿駅で降りられ赤坂離宮に向われた。そのときの衝撃は今もよみがえるようで、心底驚いたという表現をされた。

ノンフィクション作家・保阪正康氏による「平成の天皇皇后両陛下大いに語る」は、「文藝春秋」2023年1月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されている。

文藝春秋

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平成の天皇皇后両陛下大いに語る

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