たしかに私は半藤さんとともに計6回、お目にかかる機会をいただいていた。2回目は磯田道史氏、5回目は加藤陽子氏と半藤夫人の末利子さんがいっしょだった。その頃、参与として陛下の相談役を務めていた渡辺さんは、当然そのことを知っていたのだ。
7月8日のお別れの会の夜、私はこの言葉を思い返していた。私や半藤さんは、在野の歴史研究者として帝国陸海軍の元軍人や皇室関係者に話を聞いて昭和史を書いてきた。だから、いずれは両陛下との対話の記録をまとめたいという気持ちはあった。
両陛下にお目にかかったのは、2013年2月から2016年6月にかけて、お二人がまもなく80代に入ろうとされていた時期だ。当時は露も知らなかったが、内々には生前退位の御意思を示され、宮内庁内では議論が進んでいた時期でもある。「私的旅行」と称して行き先を自ら決められて、千曲市のあんずの里や東根市のさくらんぼ農家をお訪ねになったりもしていた。戦後70年(2015年8月)という大きな節目もあった。
平成の御代が終わろうとする時期に、両陛下がどのようなことに関心を持たれ、どのような話をされたのか。そのことは記録しておくべきだろう。
渡辺さんの言葉は、この原稿を書くに当たって背中を押してくれた。最近、30代、40代の研究者の書を読むたびに、悪しき資料主義に走り、当事者の肉声がほとんど生かされていないことに危機感を感じていた。肉声を尊重してきた在野の研究者の一人として、後世の役に立つものになればとの思いはひときわ強い。
今回の原稿では、あえて時系列は無視してテーマ別にまとめる。そのほうが両陛下のお考えがよくわかると思うからである。
御所の庭を望む応接室で
「保阪君、雲の上の人に会う気はあるか」
電話をかけてきた半藤さんの言っている意味がすぐにはわからなかった。
「両陛下にお目にかかって雑談するんだよ。昭和史のことをお聞きになりたいとおっしゃって、君の名前が挙がったんだ」
半藤さんは単刀直入にこうつけ足した。すでに3度、両陛下にお目にかかっているらしい。だが、私が戸惑っていると、「とにかくあまり深刻に考えなくていいから」と言う。
それからはあっという間だった。思わぬ成り行きに驚いた妻にうながされ、背広を新調し靴と鞄を買った。2週間後の2013年2月4日、私は半藤さんと共に両陛下のお住まいである御所をお訪ねすることになった。
帝国ホテルのロビーで待ち合わせてタクシーに乗り、皇居内の生物学研究所前で迎えの車に乗り換え、ほどなく御所にたどり着いた。あたりはもう暗かった。正面玄関を入ると左手の控室に通されてソファに腰を下ろした。
ここまでホテルを出てわずか10分あまり。ホテルのロビーの喧騒とはまったくの別世界に私たちはいた。まもなく侍従が現れて手順を説明してくれた。
「お目にかかるのは別の部屋です。これからお部屋までご案内して私がドアを2回叩きます。そしてドアを開けます。すると両陛下が立っていらして、『どうぞ』とおっしゃるはずです。そこで私の仕事は終わりです。あとは両陛下とお二人の世界の話になります」
侍従は丁重だった。長い廊下を先導し、応接室のドアの前に立つと彼は「トン、トン」と長めに一拍おいて二度ノックをした。ドアを部屋の内側に開くと、右側に天皇陛下、左側に美智子さまがお立ちになっていた。
半藤さんは、「今日はお招きいただきましてありがとうございます」と頭を下げた。私も「初めてお伺いさせていただきます。保阪と申します。今日はお招きありがとうございます」と申し上げ、部屋に入った。
応接室にはテーブルとソファが置いてある。庭園が望める角部屋だった。半藤さんが陛下の前、私が美智子さまの前に座った。
「よくいらっしゃいました」
とまず陛下に声をかけられた。ハッとしたのは、そのとき陛下が蝶ネクタイをされていたことだ。派手なものではなかったが、これまでお見かけしたことのない装いだった。
「どうして民主主義が根付かなかったのでしょう」
半藤さんは手土産としてお菓子を持参していたが、私はその頃、出版したばかりの『仮説の昭和史』という上下の単行本を持って行った。
「どんな本ですか」
お尋ねいただいたので、「昭和史で、もし米国と開戦しなかったら、などいろいろな仮説を立てて、その場合の日本はどのような国になっていただろうかと私なりに考えた本です」と答えた。すると陛下は、
「仮説は大事ですよね。日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね」
といきなり思いもよらぬことをおっしゃった。私も半藤さんもすっかりまごついてしまった。本をお渡ししたときに「日米開戦直前のハルノートを受諾したら」とか、「戦争をもっと早く終わらせていたら」という例を挙げたので、戦前のことを指してのことだとは思うが、最初からこういう質問を受けて驚いた。