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「でもこれ、本気で殺そうってわけじゃないね」

 ある若い女性受刑者の話をしよう。

 喘息のような息苦しさがあると言うのでシャツをまくって背中の聴診をした。

 彼女は背中に何本もの切り傷の痕があった。脂肪のない細い背中を横切る線は、ざっと見て10本ではきかない。かなりの数だ。傷の形状からしてよく切れる刃物でつけたものだ。リストカットに酷似している。

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 でも待てよ、少し変だ。背中の真ん中ゆえに自分で手の届く場所じゃない。

「これ、なに? どうした?」

 聴診を終え、シャツをおろしてやりながら尋ねてみた。そうしたら隠すわけでもなくわりとすんなり答えてくれた。

「あ、これは……母親にやられました」

 虐待によるものだった。包丁による傷だという。

 ただ、傷痕の様子からすると、乱暴に深く切りつけたものではない。鋭利な刃物をいたずらに皮膚に這わせたような傷のつきかただ。

「そうか。でもこれ、本気で殺そうってわけじゃないね」

 私の言葉に彼女は薄く笑ってうなずいた。 

「そう、だと思います」

©️iStock.com

 母親の感情のままにもてあそばれた人生だったのだろう。それをあきらめながら受け入れてきた長い年月を彼女のカラダが物語っていた。

 その育ちかたと犯罪者になったこと、双方にまったく関連性がないと誰が言えるだろう。

 人間は生まれながらに罪人なわけではない。いつからかさまざまな外力で捻じ曲げられて罪人になっていくのだ。

 このように、シャバで医者をやっているだけだったらまず見ることのないような傷がどれだけあることか。

 刑務所はそれだけ異常性を孕(はら)む社会なのだ。

リストカットの傷はたいてい浅い

 傷は喧嘩や抗争、虐待で作られるだけではない。実際には自傷によるものの数がすごく多い。

 ことに女子被収容者のリストカットの率はとても高い。手首から腕にかけて、袖口をまくると傷痕が現れる。

 常習リストカットは真っすぐな細い線がきれいに横に並んでいるのが典型的。その傷はたいてい浅い。どれも数日間で塞がってしまう程度のもの。つまり、さほど力を入れて切りつけていないことがわかる。

 リストカットの場合、たいていは動脈を断ち切って死んでやろうという強い意図はない。ただ皮膚を刃物で傷つけること自体が目的となっている。

 痛みに伴って脳から分泌される脳内鎮静物質にほんの一時酔いしれる意味が大きい。だからクセになりがちで、一旦この沼に堕ちるとなかなか這い出て来られなくなる。