ラフォーレ原宿に東急プラザ表参道原宿、一角では何やら新しい商業施設を建設中だ。さらに表参道を進んで行けば、表参道ヒルズをひとつのシンボルに、周囲にはブランドショップも建ち並ぶ。
いまさら原宿を“ファッションの町”などと定義するのもバカバカしい気がするが、そうしたこの町の個性を決定づけているのは、この神宮前交差点を中心とした表参道沿いといっていい。
さらにややこしいことに、この町は表参道・明治通りというふたつの大通り以外は実に複雑な路地ばかりで構成されている。
暗渠となった旧渋谷川の遊歩道、キャットストリートなどはその代表格で、それらの路地にも無数のアパレル店などが建ち並び、人通りも多い。もはや、筆者のごときおじさんには、原宿一帯から発信されるという最先端のファッションなど、語る言葉はない。
とにもかくにも、どこへ行っても原宿は人だらけ。普段のこの町は、明治神宮にでも逃げ込まない限り、人混みの中に身を置き続けるほかないようだ。
忍者の町だった「原宿」のひっそり残っていた“足跡”
原宿一帯は、いま「神宮前」という地名を得ている。ただ、これは1965年に実施された住居表示で名付けられたもので、それ以前は原宿・隠田などと呼ばれていた。徳川家康の伊賀越え(大河ドラマを見続けていればいつか出てきます)に力を尽くした伊賀者(忍者だ)に与えられたのがはじまりだとか。
明治に入っても、明治神宮が出来るまではのどかな田園地帯と表現する方が近かったようだ。原宿駅が開業した1906年時点では、もちろん明治神宮もなければアパレル店もなかった。
最初の変化はやはり明治神宮だ。明治神宮が創建されると、とたんに多くの参拝客を集めた。原宿駅はさっそく手狭になって、対策として1924年に新駅舎が登場する。これが、2020年春まで使われ続けた西洋風の木造駅舎だ。
戦前までの原宿駅は、まさしく明治神宮のための駅だった。1920年11月1日の明治神宮鎮座祭では、原宿駅にあまりにたくさんのお客が殺到し、それはそれは大変なことになったようだ。当時の新聞には、「雑踏の中心は原宿驛 雨に悩む悲惨な群衆」などとある。
また、昭和初期も初詣シーズンの混雑はなかなかのもので、「原宿驛長遂に悲鳴」「御覚悟召され初詣」といった過激な文言が新聞紙面に躍っている。