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 ギャラリー関係者や作家仲間も噂するようになっていた頃、山口さんは限界を迎えていた。山口さんの対応が素っ気なくなっても、A氏は意に介さずに「彼氏ヅラ」を続けた。

 そうしてある日、突然、A氏は山口さんの大学院に押しかけてきたのだ。

「この後、食事に行こうか?」

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 A氏ははにかんで誘ってきたが、山口さんは身の危険を感じた。相手は、自分の気持ちなど気にせず、勝手にふるまうような男性である。車に乗ってしまい、2人きりになったら何をされるかわからない。

 山口さんは「制作が忙しいので」と断った。しかし、「顔だけでも見たい」と食い下がる。

 仕方なく、山口さんは作業着のまま、A氏が駐車している場所に向かった。あえて絵の具がついたままの作業着で行ったのは、作業で忙しく、脱ぐ時間もないことを暗に伝えるためだった。

「真奈美がちゃんと食べているか心配だから。栄養とってね」

 A氏は、さも優しく、作家の彼女を支える恋人のようにふるまい、食料品の入った袋を手渡してきた。中には、ヨーグルトや果物などが入っていた。

写真はイメージです ©getty

 そのまま、A氏を送り出した山口さんは、すぐに袋を捨てた。どんな異物が混入しているか、わからなかったからだ。

「実家の住所を教えて」

「カーナビに実家の住所を登録したい」

「実家の住所を教えて」

「え?」

 また別の日、ギャラリーに押しかけてきたA氏は、とんでもないことを言い出し、山口さんは思わず聞き返していた。

「真奈美は体が弱いから、万が一、倒れた時が心配。いざとなったら、自分がご実家に助けを呼ばないといけないから教えて欲しい。ちゃんとカーナビに登録しておくから」

 断っても断っても、何度も執拗に実家の住所を知りたがり、しまいには「なんで教えてくれないんだ」と不機嫌になった。

 支離滅裂だ。いちコレクターが作家の実家の住所を知る必要性が、どこにあるのだろう。山口さんはあまりの気持ち悪さに体が震えた。

「真奈美の一番のコレクター」を自負していたA氏は、そのうち山口さんの作品をすべて買い取らせてほしいと言ってきた。

 大学に押しかけたり、実家の住所を執拗に聞いてくるなどの「事件」もあり、山口さんは嫌な予感がして、「考えてからあとでお返事します」とだけ答えた。

 しかし、A氏は「これくらいあれば足りるだろう」といって、数十万円もの大金を勝手に山口さんの口座に入金してきた。山口さんは口座番号を自ら教えたわけではなかったが、以前参加したアートイベントを通じて、A氏に知られてしまっていたのだ。

 山口さんは驚いて返金しようとした。

「作品は何年でも待つから、制作費だと思って使ってほしい」

 A氏は絶対に譲らず、山口さんは押し切られてしまった。