時には大学のアトリエにまで押しかけることも……。美大生や若手アーティストの女性を執拗につきまとうのが「ギャラリーストーカー」だ。きらびやかに見える美術業界で、悪質な性加害がはびこるのはなぜなのか?
業界の異常構造、悪しき伝統に迫った弁護士ドットコムニュース記者の猪谷千香氏の新刊『ギャラリーストーカー 美術業界を蝕む女性差別と性被害』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「今、真奈美の大学の前にいるんだけど」
美術大学の大学院生、山口真奈美さん(仮名)は、携帯から流れる声に背筋が凍った。美術コレクターの男性、A氏(40代)だった。
その日、山口さんはいつものように大学のアトリエで制作に取り組んでいた。集中していると、A氏から電話がかかってきた。
「真奈美に会いにきたよ」
A氏は恋人でも、親しい友人でも、家族でもない。「真奈美」呼ばわりをされるほど、親しい関係ではない。しかし、A氏は一方的に「真奈美」と呼ぶ。山口さんがどう思うか、気にしている様子もなかった。
山口さんは全身の血の気が引いた。A氏と約束していたわけではない。事前の連絡もなく、突然現れたのだ。(なんで? どうしてAさんがここにいるの?)
A氏の自宅は、山口さんの大学院から車で半日は走らないと着かないような遠い場所にある。自分の安全なテリトリーである大学にまで、A氏が踏み込んできたことに山口さんはパニックになり、怯えた。
A氏とは、山口さんがあるグループ展に参加していた時に出会った。若手の作家を応援しているコレクターだった。山口さんの参加する展覧会に、遠方からでも足繁く通ってきてくれた。
「普通のおじさん」に見えたのに…
その姿は、いかにも「美術が好きな温和そうなおじさん」に見えた。20代の山口さんからすれば、父親と同世代といっても良い年齢で、恋愛対象として考えたことは一度もない。あくまで、他のコレクターと同じように作品を購入してくれるお客さんだった。
しかし、いつの間にか、A氏は山口さんを「真奈美」と下の名前で呼ぶようになっていた。
「真奈美は俺が支えないと」「真奈美が心配で」
山口さんが仕事でお世話になっているギャラリーの関係者の前で、A氏は自分がいかに山口さんから頼られているか、吹聴してまわった。もちろん、山口さんがA氏に頼ったことはないが、A氏はそう思い込んでいるらしかった。
「初めて画廊で会ったとき、俺は真奈美と出会う運命だったんだと思った」「真奈美を愛してる」
A氏は山口さんを2人きりのドライブや食事に誘うようになり、愛の言葉を囁き始めた。
「似合いそうだから買ったんだけど、よかったら使って」
そう言って、バッグをプレゼントされたこともあった。それは、山口さんの好みから外れていた。若い女性がみたら「ダサい」と見向きもされないようなものだった。
山口さんの微妙な表情に、A氏は一切、気づいていないようだった。
勝手に「彼氏ヅラ」してくるA氏。山口さんは、必死にコレクターの一人として接することを心がけ、一線を引こうとした。誘いも断り続けたが、ギャラリーで展覧会を開けば、必ずA氏は会いに来た。そして、ギャラリー関係者や他の作家の前で、あの「彼氏ヅラ」を繰り返す。
「なんか、Aさんの距離感っておかしくない?」