距離を取っても取っても、迫ってくるA氏。自分の大事な作品まで、A氏に奪われるのかと恐ろしかった。
追い詰められていた山口さんを救ったのは、あるギャラリーのオーナーだった。
山口さんがそのギャラリーで個展を開いた際、直接知らせていなかったにもかかわらず、A氏は姿を現した。山口さんのSNSで発信していた個展の案内を見つけてきたのだ。
幸い山口さんは不在だったが、A氏は初対面のオーナーに、「真奈美は危なっかしいところがあって、自分が支えてるんです」と話し、山口さんととても親しい間柄であることを誇示してみせた。
恋人や親しい友人にしては、年齢が離れ過ぎている。オーナーは最初、年齢差のあるA氏のことを、その話ぶりから、山口さんの父親か、親戚の男性かと思った。
しかし、妙な違和感もある。そこで、オーナーは「もしかして一方的につきまとっている人では」と心配になり、山口さんに尋ねてきた。
山口さんは堰を切ったように、A氏から被害に遭っていることをオーナーに話し始めた。オーナーの顔色が変わった。
当時、A氏は山口さんの自宅住所も入手していた。大学まで来たように、いつ、また自宅に押しかけてくるかわからない。オーナーは山口さんに身の危険が迫っていると判断した。
「できるだけAさんとは離れたほうがいいと思う」
オーナーはそう言って、独りで悩み続けていた山口さんの相談に乗り、親身になってくれた。
オーナーの助言に従い、山口さんはもう作品は譲れないことや、入金されていたお金を返すことをA氏にメールできっぱりと伝えた。できる限り、業務連絡のように用件のみに徹した。
A氏はさすがに山口さんの態度から何かを悟ったのか、了承してお金も受け取り、以後、A氏によるつきまとい行為はなくなった。
いくら伝えてもつきまといを止めなかったA氏から逃げ切るまでに、山口さんには2年以上の月日が必要だった。
華やかな美術業界の舞台裏で
見上げるような高い壁に、華々しく展覧会のバナーを掲げる美術館。連日がお祭り騒ぎのビエンナーレやトリエンナーレ。一流美術家たちの最新作を展示する都心の瀟洒なギャラリーや高級ブランドの旗艦店。国内外のギャラリーが一堂に会し、活況を見せるアートフェア。人気アーティストたちが集まって展開する注目のアートプロジェクト。
遠くから見る美術業界は、綺羅星のごとく輝いていて、とても眩しく見える。私もそのキラキラした世界に魅了されていた一人だ。国内の有名作家の美術展を見るだけでは飽き足らず、時間があれば画廊にも足を運んできた。注目の美術館がオープンしたと聞けばいち早く訪ねたし、地方でトリエンナーレなど国際美術展が開かれたら休みを利用してまわった。日常の煩わしさから解放してくれる、憧れの世界がそこには広がっていたからだ。
しかし、ひとたび舞台の裏側をのぞけば、華やかだけでは済まされない暗闇が広がっていた。一般的な常識や倫理、モラルでは到底理解できないような行為が、日常的に行われているのだ。
その一つが、ギャラリーストーカーである。