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陽菜さんが直視した「現実」

 だが、乳児院に毎日面会に行くうち、陽菜さんは現実を直視せざるを得なくなっていた。たとえ1歳で引き取ったとしても、誰が保育園に連れて行き、誰が迎えに行けるのか。自分には車を買う貯金もなければそもそも免許もない。母は自分一人を養うのに精いっぱいで頼れない。児童相談所の担当者には毎回、生活基盤が安定したかどうかを必ず聞かれるが、自信をもって答えることができない。何より、心理的に母親との結びつきが強く、その母親から虐待を受けていた自分が、心身が不安定になったとき我が子に虐待を絶対にしないと断言できるのか。

 特別養子縁組が決まる過程で、陽菜さんは調査官にこんなことを聞かれたことがあった。「お母さん(陽菜さん)の思う、お子さんの幸せってなんですか?」と。

「私の考える幸せは、両親がいて、帰る家があって、食べたいものが食べられて、お金の心配をせず学べる環境にあること。普通のことを普通にしてあげられること。そう答えました。でも、今の私では到底叶えてあげることができない。手放すなら、今がギリギリのタイミングだと思いました」

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「決断したときの私は、誰よりも冷静だった」

 生後5か月の今なら、歩いて自分に駆け寄ってくることもない。もし、駆け寄ってこられたら絶対に手放せなくなってしまう。このままずるずる引き延ばすと、子どもにも母親の記憶が残ってしまうだろう。

「母に相談したら、やめてと泣かれました。祖母からは、薄情だねと突き放されました。でもゆるぎませんでした。“だめだよ。お母さんが悪いわけじゃないけど、コウが私みたいになっちゃう。高校にも行って、大学にも行かせてあげたいじゃん”と。周囲には私が感情的になっているとも言われました。でもあのとき決断した私は、誰よりも冷静だったと思っています」

陽菜さんの母親と息子のコウ君(陽菜さん提供)

 特別養子縁組に同意してからは、陽菜さんは子どもに会っていない。それ以降は乳児院には養親の候補となる夫婦が通うことになった。その後、家庭裁判所による審判を経て、正式に特別養子縁組が成立したのは、特別養子縁組に出すと児童相談所に電話してから約2年後のことだった。

「家庭裁判所から送られてきた2枚の審判書のコピーを手にしても、実感は湧きませんでした。本当に子どもが離れていったことを思い知ったのは、勤め先に住民票の提出を求められたときです。いつの間にか住民票からコウの名前がすっぽり抜けていた。ああ、これが特別養子縁組なんだと。私が産んだという事実がすっかり消えてしまっていた」